第1章 創 る ―未知の海へ―

1 瓦と写真

 株式会社ローヤルカラーの創立は昭和39(1964)年7月6日である。創業者で初代の社長は澤田五郎、定款に定めた会社の目的の最初の行は「カラー写真の撮影および現像、焼付、引伸加工」だった。
 しかし、澤田五郎のこれまでの経歴に写真業との接点は見いだせない。澤田五郎はセメント瓦製造業の藤澤工業株式会社の社長である。写真の趣味もない男がなぜローヤルカラーを始めたのか。
 その背景には、ローヤルカラー創業当時の日本の社会情勢と、日本の写真事情があった。

2 昭和39年の日本

オリンピック景気

 ローヤルカラー創業の昭和39年の日本の最大の出来事は、オリンピック東京大会だった。 「もはや戦後ではない」と『経済白書』に記されたのは昭和31年だが、国民の多くが戦後からの脱却を実感したのはむしろこの年だった。世界規模の国際大会運営の成功と金メダル16個を獲得した日本選手の活躍は、日本人の敗戦国コンプレックスを吹きとばした。
東京オリンピックを報じる新聞記事(昭和39.10.10朝日新聞)  当時の首相池田勇人は昭和36年に所得倍増計画を発表したが、日本経済はその翌年に早くも国民総生産が倍増するという驚異的な成長を遂げた。 オリンピックに焦点を合わせた名神高速道の開通、東海道新幹線の開業、大型ホテルやビルの建設はオリンピック景気の象徴であり、この国土開発のパターンはのちの田中角栄の『日本列島改造論』につながっていく。
 折しもローヤルカラー創立の翌日から行なわれた自由民主党の臨時党大会で、池田は経済政策の実績をバックに佐藤栄作、藤山愛一郎を退けて三たび総裁に選ばれ、第三次池田改造内閣が発足する。

いざなぎ景気

 しかし池田は1カ月後健康を害して入院、東京オリンピック閉会の翌日10月25日に辞意を表明、11月9日に池田が後継者に推した佐藤栄作の内閣が発足する。
 そして当時戦後最大規模と言われた山陽特殊製鋼の倒産、山一證券の危機に象徴される證券不況など高度成長期の終焉とも言われた現象に加えて、新潟地震等の自然災害、産業事故、公害問題、公務員ストなど、日本社会の不安定さが表面化し、戦後の復興の延長線からの転換が言われる。
 国際的には米軍のベトナム戦争介入の本格化、中国の原爆実験などがあったうえ、前年のアメリカ、ケネディ大統領暗殺のショックもまだ尾を引いていた年だった。
 オリンピック景気にはこのような光と影の交錯が見られたが、翌昭和40年には、日本経済は昭和30年からの「神武景気」、34年からの「岩戸景気」を超える戦後最長の好況期に入り、のちに「いざなぎ景気」と呼ばれたこの景況は、昭和40年代後半のドルショック、オイルショックまで続いた。

3日本写真事情

写真大国日本

 カメラを持ち写真を撮るのが好きなのは日本の国民性で、日本は世界の写真市場でも有数の写真大国である。
 その素地は大正時代にすでにあったが、日中戦争前には国が軍事目的で写真の研究と機材の国産化を奨励したためもあって、日本の写真産業は質量ともかなりの水準に達していた。昭和6(1931)年には約40のメーカーが年間約8万台のカメラを生産し、フィルムもフジ、サクラの2社への集約が進んで、大量生産の態勢が整えられていた。
 しかし戦時体制が強化されると軍事機密保持という理由で風景の撮影は事実上禁じられ、民間への供給が制限されてカメラ、フィルムは店頭から姿を消し、写真の普及は停滞を余儀なくされる。
 昭和20年の敗戦後、占領軍は日本のカメラ、フィルムの優秀さを認めて、進駐軍への供給を優先することで早くに生産再開を許可される。日本の風景を故国の家族に見せたい進駐軍の兵士と、趣味、娯楽に飢えた日本人に、多くの新興カメラメーカーも加わってカメラとフィルムを提供し、写真ブームが到来する。
 昭和26年には、朝鮮戦争に従軍した『ライフ』誌カメラマンが賞賛した高級機から、一時は30社以上のメーカーが競って製造した二眼レフにいたるまで、カメラの生産台数は年間26万台に達した。
 昭和29年にはカメラの生産台数は54万台に倍増するが、一方でその1年間にカメラメーカー60余社が倒産するなど、安定さを欠きながらも写真産業は伸びつづけた。

一家に1台

 昭和20年に120%だった写真関係の物品税は年々引き下げられ、手が届く価格になったカメラは全国に急速に普及した。昭和25年に行なわれた「写真文化展」には50万人、27年の「カメラ祭撮影会」には5万人、35年の「第1回カメラショー」には13万人の人がつめかけている。
 ローヤルカラー創業のころには、戦後に乱造されたカメラは姿を消してレンズシャッターの35ミリカメラが主流となり、1本のフィルムで倍の枚数が撮れるハーフサイズのカメラが流行し、高級感のある一眼レフが着々とシェアを伸ばす。また手軽に動画を撮って家庭で見られる8ミリカメラと映写機が出まわり始めた。
 8ミリカメラを除くカメラの世帯普及率はこのころでほぼ50%に達していた。その率は昭和60年には飽和状態と言える85%にまで伸びつづけた。普及率がカメラを超えた家庭用の耐久消費財は、カラーテレビ、冷蔵庫、掃除機だけである。

天然色からカラーに

 戦後の日本のフィルムの歴史はカラーフィルムの歴史でもある。写真のカラー化は映画が先に実用化される。当時は天然色映画といっていたがこれは人工着色の映画に対しての言葉だったという。
 アメリカのイーストマン・コダックが商業ベースで写真のカラー化に成功したのは昭和10年で、日本でも研究は進んでいたが、戦争による停滞でアメリカに大きく水をあけられた。しかし日本の立直りは早く、昭和23年にはフジ、サクラがカラーフィルムを発売する。 最初はスライドで見るリバーサルフィルムが主体だった。印画紙にプリントするネガフィルムの発売で家庭にも普及が進むのは、昭和32年ごろからである。輸入品のコダック、アグファのカラーフィルムの愛好家も多かった。
 写真全体に占めるカラー写真の比率は、カラーテレビと同じように急速に高まる。これにはフィルムの感光度やカメラのレンズの明るさ、機能の向上などで撮影の失敗が少なくなったこととあわせて、フィルムの価格と現像料の引下げによるところが大きかった。
 ローヤルカラー創業時にはフィルム全体の10%に満たなかったカラーフィルムは、10年後の昭和50年には80%に達し、60年に90%、平成8(1996)年前後には限りなく100%に近づく。
 フィルムは高い技術と厳しい品質管理による大量生産が前提の工業製品のため、世界でも典型的な寡占産業で、一般のフィルムでは最近までアメリカの巨人コダック、日本のフジ、サクラ、ドイツのアグファの4社で世界の需要をまかなっていた。

ラボの登場

 カラー写真は現像、プリントなどの写真の加工の仕事、いわゆるD.P.E.のシステムを一変させた。
 白黒写真の時代、映画フィルム専門の大規模な現像所は別として、一般の写真は町の写真店がカメラやフィルムなどを売るかたわら、店の奥の暗室で現像、焼付け、引伸しを行なっていた。暗室を備えた学校や会社も多かったし、自宅の押入れを暗室にして自分で処理するマニアもいた。
 しかしカラー写真は町の写真店やアマチュアの手に負えない。カラー写真の初期には撮影済みのフィルムはフィルム会社に郵送し、その工場で現像、プリントして返送していた。日本に工場がないコダックはハワイで処理していた。当時フィルムの価格には現像料、プリントあるいはスライドにする料金が含まれ、郵送用の封筒がついていた。
 しかしこの方式では返ってくるまでに半月もかかり、カラー写真の普及につれてもっと早くという要望が高まる。 そこで昭和35年ごろから、フィルムメーカーが各地に現像・加工の拠点を作り、また既存の大手・中堅の現像所と提携して自社のフィルムを処理させたのが日本のラボの始まりである。
 これでカラー写真の仕上がりの日数は、昭和39年ごろには中2日ぐらいに大幅に短縮される。 そしてフィルム価格と現像料などは別建てとなり、郵送はなくなって写真店などの取次制へと変わってゆく。
 ラボとは、現像所の意味がある英語のLaboratoryの略で、アメリカでは頭3文字でラブと発音するが、日本では頭4文字をとってラボと呼ぶことにしたという。 ラボはカラー写真専門なのでカラーラボと呼ばれ、昭和37年に発足した業界団体は今でも日本カラーラボ協会であり、ローヤルカラーのようにカラーがつく社名のラボは今も多い。
 このラボという事業の出現と、フィルム会社によるラボの系列化がローヤルカラー設立の一つのきっかけとなった。

4 いざ創業

澤田五郎という人物

 澤田五郎は大正6(1917)年に埼玉県入間郡藤澤村(現・入間市下藤沢)の旧家の三男に生まれた。 8歳での父の死、中学校から高等小学校への転校、家業の機織業の廃業、兵役では部隊がほとんど全滅したノモンハンの戦闘に参戦、除隊後には南シナ海で乗船が雷撃されての漂流など、20歳台ですでに人生の辛酸をなめ、九死に一生の危機を乗りきってきた人物である。
 昭和20年8月の日本の敗戦で長兄、次兄も無事復員するが、大家族の一家の生活は農業だけでは立ちゆかない。 独立の道を模索していた澤田五郎は、戦災で焼け野原となった東京の住宅の再建になくてはならない建築資材の中で、産地が限られる材木や日本瓦などと違って、どこででも作れる工業製品であるセメント瓦に目をつける。
 そして昭和22年1月、結婚間もない富佐子夫人と牛車に家財道具を積んで東京に出るが、セメント瓦製造の経験や知識があるわけではない。 文字通りの徒手空拳、何とか資金を捻出して手に入れた当時貴重品のセメントと砂を自分の手でこねて、失敗を重ねながらようやく1枚の瓦を作りあげ、神棚に供えたのが出発点だった。

親族に囲まれた軍服姿の澤田五郎(中央)   澤田五郎夫妻(昭和33年ごろ、藤澤工業本社前)
藤澤工業浦和工場の作業の様子(昭和38年ごろ)   愛用のカメラを持った澤田五郎(昭和41年)

 その後も夫妻の苦闘は続くが、かねての予想通り、東京の復興とともに仕事も軌道に乗り、昭和24年3月には組織を整えて「藤澤工業株式会社」を設立する。 社名の「藤澤」に郷土への感謝の気持ちを込めたという。
 以降、新製品の開発、製造拠点の増強、建設・不動産関係への進出と業容を拡大し、ローヤルカラー創業時には年間売上げ1億4,000万円、従業員70名余の中堅企業に成長させていた。

創業の伏線

 澤田五郎の性格とその事業は取引銀行にも高く評価され、さまざまな情報が彼にもたらされていたが、昭和38年に東京信用金庫から東京・池袋の中堅のカラーラボである東京カラー社への出資話が持ち込まれた。
 当時コダックは日本でのラボの系列化を進めて、この年にカラーフィルムの処理をハワイから日本に移したところだった。東京カラーもコダックの設備を導入したが、本来はフジ系のラボのためフジはコダックの印画紙の使用を認めず、それならコダックを扱う別会社を作ろうと、東京信用金庫に新会社の設立と出資を打診したのである。系列のラボはフィルム会社の印画紙などの重要な販売ルートでもあった。
 澤田五郎の決断は早かった。 彼の答えは出資ではなく経営であり、資本の51%以上なら引き受ける、というのが条件だった。東京カラーはその条件をのみ、澤田五郎が発起人になってコダック系のラボを立ち上げることとなったのである。
 なお系列のラボという場合、一つは資本的にどこかのフィルムメーカーの傘下にあるいわゆる護送船団的なラボという意味と、一つは資本関係はないが扱う商品や技術面でメーカーと提携関係にあるラボをいう二つの意味がある。 ローヤルカラーは当初から現在まで、どのメーカーとも資本関係を持たない、独立系ともいわれるラボで通している。

情熱と時流

 セメント瓦一筋の澤田五郎の目をまったく畑違いの写真に向けさせたのは、彼一流の人生哲学、経営哲学と鋭いカンだった。
「一つのことに成功する者は他のことにも成功する」「関連した事業だけでは共倒れする」「会社を作るのは自分の情熱と時流が合致したときで、それは自分のカンで決める」、澤田五郎の語録である。
 彼はさっそく会社設立の準備にかかる。 社名の「ローヤルカラー」は早くに決めていた。ちなみにローヤル(Loyal)とは、澤田五郎の信条の一つである「誠実」を意味する言葉である。 技術者の養成と仕事の確保のため、ローヤルカラーの採用者を最初は東京カラーの社員として技術を習得させること、取次店から東京カラーに持ち込まれるフィルムのうちコダックの処理はローヤルカラーが受託すること、ただし最初は現像は東京カラーが担当し、ローヤルカラーはプリントだけとすること、などを取り決める。 ここに彼の慎重、細心な面がうかがえる。
 しかしこの段階ではまだ会社の設立の時期は決めていない。 写真全体の1割にも満たないカラー写真の将来が、まだ彼には読み切れていなかったのである。

アメリカで見たもの

 昭和39年4月25日、セメント瓦の業界団体であるスタンダード工業協同組合の13名は約1カ月のアメリカの建材事情視察のため羽田を飛びたつ。この4月から海外旅行が自由化されて、さまざまな業界団体が海外視察のツアーに出かけるが、1ドル360円の時代、アメリカ旅行は1カ月で1人100万円が相場だった。
アメリカの建材事情視察へ
 この旅行に参加した澤田五郎は、当然アメリカの住宅建築、屋根材の事情をつぶさに見てきたが、心に焼き付いたのはアメリカの写真を取りまく情景だった。
 アメリカの写真市場はコダック一色であること、観光地では子供もみなカメラを持ちカラーフィルムを使っていること、駅や街頭の大きなカラー写真の広告の色の美しいこと、自身で写真を撮る楽しさを初めて味わったこと、彼が撮ったコダックのカラー写真が帰国後同行の仲間に賞賛されたことなどが、コダックのカラーラボへの情熱を一気に高めた。
 日本に見る国家的な大イベント、交通網の発達、それに伴うマイカーの普及は、日常語になったバカンスの量的質的な拡大と写真の将来を約束する。それはアメリカで見たカラー写真の将来であり、カラーラボの将来でもある。
 日本でのカラー写真の予兆と自分の情熱の一致を感じた澤田五郎は、一刻も早く株式会社ローヤルカラーを発足させるべく、帰国早々動き始めた。

 

そして創業

社員旅行・下田

 コダックの日本総代理店長瀬産業や東京カラーとの詰め、場所の選定、建物と設備の準備などをほぼ1カ月の間に終わらせ、発起人や株式の引受人を定めて昭和39年7月3日金曜日に設立総会を開催、その3日後の7月6日月曜日に、株式会社ローヤルカラーは創立の日を迎えた。
 社長澤田五郎、役員5名、資本金1,000万円。
 東京都豊島区池袋東3丁目(現・豊島区南池袋2丁目)の鬼子母神に近い住宅地の木造アパートを買いとって改造したのが本社を兼ねた工場で、東京カラーから移設したコダックのカラー写真のプリント用機械4台と社員約30人というのが、株式会社ローヤルカラーの未知の海への船出の姿だった。