第2章 伸びる ―風は追い風―
1 時代のあらまし 昭和40年~49年
■ 伸びたもの
ローヤルカラー設立の翌年から5年続くいざなぎ景気、その後さらに5年続いた列島改造ブームは、昭和48(1973)年のオイルショックで終焉を迎えるが、昭和40年代の10年間、日本はあらゆる面で伸びてきた。
経済力を表わすGNP(国民総生産)は、昭和40年を100とすると昭和49年には203と倍増する。1億人にわずか及ばなかった日本の人口は、この10年で13%伸びて1億1,000万人になり、戦後生まれの今「団塊の世代」と言われる層が生産に寄与する年齢に達する。平均寿命は男女とも10年で4歳強伸びて男71.2歳、女76.3歳となり、世界の長寿国に仲間入りする。
写真業界も伸びる。アマチュア向けの写真市場の売上げは、この10年で3倍に伸びる。イベント、レジャー、家族のスナップ等をあわせた写真の枚数は、昭和40年の2億枚が49年には23億枚と11倍に伸びる。
カラー写真は、昭和40年には総枚数の8%、1,600万枚にすぎなかったが、その後の10年間で比率では72%、枚数では16億6,000万枚と100倍に伸びる。写真といえば断わらなくてもカラー、の時代になったのである。
昭和45年3月15日から9月13日まで大阪で開かれた日本万国博覧会は、入場者6,500万人を記録し、場内の写真相談所の売上げは約13億円に達した。
■ 伸びなかったもの
一方で急成長のひずみが各所で表面化する。政界の黒い霧、水俣はじめ各地の公害病、大学紛争、赤軍派。世界的にはベトナム戦争の泥沼化、そしてドルショック、オイルショックがこの10年の幕を引く。
昭和46(1971)年8月15日、アメリカのニクソン大統領はドルと金の交換の停止を突如発表する。世界の通貨の秩序をくつがえす政策がアメリカ議会にも事前の通告なく発表されて全世界に衝撃が走る。日本ではそれまで1ドル360円の固定相場が308円に改定され、一挙に17%の円高となって産業界は混乱する。これがニクソンショックとも言われるドルショックである。その後外国為替は市場の実勢による変動相場制に移行する。
その2年後の昭和48年10月17日、第4次中東戦争に敗れたアラブ産油国が発動した原油の減産と値上げは、エネルギーと化学原料の多くを石油に依存する日本経済に冷水を浴びせかける。物価の高騰と物不足の不安は、スーパーで主婦がトイレットペーパーを奪いあう騒ぎとなって「オイルショック」という言葉が定着する。狂乱物価抑制のため、公定歩合は一時9%台まで引き上げられ、昭和49年の経済成長率は初めてマイナスを記録した。
その後の日本経済は、バブル景気まで低迷の年月を過ごすことになった。
この間写真業界は全体としては順調な伸びを示すが、昭和40年の約200社から10年間で約3倍に増えたラボ業界は、時間短縮と単価の引下げの激しい競争に明け暮れることとなった。
2 一本立ちへ
■ 口は出さない
澤田五郎の性格を知る人は、戦後まったくの素人が身一つで始めた町工場を業界をリードする会社にまで育てあげたように、ローヤルカラーも細かいところまで直接目を配って引っぱっていくものと思っていたが、そうではなかった。
セメント瓦なら自分の手で1枚1枚作りあげながら身体で覚えた感覚がありカンがある。しかしラボの仕事はまず現像やプリントの理屈が頭にはまらない。また会社の運営もセメント瓦と写真とでは金の出入りの形からしてまったく違うのである。

ここにまた彼の哲学が働く。つまり奥が深くデリケートなラボの仕事は、管理も技術もいまさら自分の身につくものではない。となればそれは人に任せるしかない。そしてその人を選ぶのが自分の仕事、と割り切ったのである。
現場には東京カラーに預けて技術を習得させた人たち、東京カラーから移籍した人たち、写真店から転職してきた人たちを即戦力として配置した。会社運営のスタッフには、金融機関のこれと思う人を口説いた。
澤田社長はそういう人の肩を抱いて入社を懇請したという。そして、経営者の職責は尽くしつつも、日常の業務には口をはさまなかった。
■ ラボという仕事
カメラ、フィルム、撮影、現像とプリント、という流れの中で、ラボはいちばん川下にいて、川上からの流れを待つ。
客との関係では、フィルムが持ち込まれるまでは何もすることがない。今日どれだけのフィルムが持ち込まれるかは分からない。ラボはまったく受身なのである。フィルムは一刻も早く処理しなければならないから、ラボは年中無休、24時間体制でいるが、それだけのフィルムが入るかどうかは結果でしか分からないのである。
フィルムには一瞬の映像が記録されている。同じ映像は二度と撮れないから、ラボに失敗は許されない。失敗の多くは手作業で起こる。そのためにはできるだけ自動化が進んだ装置を使いたい。それは時間短縮にもつながる。
カメラ会社、フィルム会社との関係では、パノラマ写真やこれまでにない新しい規格のフィルムが出ると、それに対応するため、採算が取れるかどうかは分からなくとも、ラボは新しい設備を入れなければならない。
ラボの競争は激しい。現像、プリントの技術は当然として、アピールするのは料金と時間である。技術の維持向上もコスト低減も時間短縮も、つまるところは金がかかる。
歩き始めたローヤルカラーの事業の安定も今後の発展も、1本いくらの現像料、1枚いくらのプリント料の積み上げにかかっていた。
■ 自前の営業網を
当初ローヤルカラーは自前の営業網は持たず、東京カラーが集めて現像したコダックフィルムのプリントだけを行なういわば東京カラー社の下請けとして出発した。これでは東京カラーの枠から出ることがない。ロールプリンターの機械が出だしたころで、まだ手焼きが主流の時代だった。
このころにはフィルムの郵送方式はなくなり、写真店が客からフィルムを預かってラボに取り次ぐ取次店制になっていた。フィルム会社は現像にタッチしなくなったから、現像料はフィルム価格とは別になり、現像とプリントの代金は取次店からラボに入るようになる。
この変革でフィルム会社の系列ラボへのしばりはゆるくなった。技術的にはラボはどこのフィルムでも印画紙でも処理できるから、それだけ間口の広い営業が可能になるが、競争はそのぶん激しくなり、取次店の囲い込みが重要になってくる。
担当者は池袋を中心に自転車やバイクで駆けまわり、写真店に飛びこんではローヤルカラーの取次店になるように勧誘した。
■ 追い風に帆をかける
ローヤルカラーの強運は、カラー写真の普及のカーブがこれから急上昇しようとする、まさに上げた帆に追い風を受ける絶妙なタイミングで会社を設立したことだった。
コダックのラボも当たった。日本でのコダックの人気は根強い。愛好家はコダックのフィルム、コダックの印画紙にこだわって、コダックのラボを指定してくる。当時コダックのラボの系列化は始まったばかりで、既存の大規模なラボはあっても小回りのきくラボはまだ少なかった。
営業網拡大の成果もあって、ローヤルカラーが扱うフィルムの本数は月ごとに増加し、当初の月間5万本が10年後には10倍の50万本に伸びる。35ミリのカラーフィルムは初期は12枚撮りだったが、その後はほとん
どが24枚撮り、36枚撮りになったから、プリントの枚数の伸びはフィルムの本数の2倍、3倍となった。
創業時のプリンター3台、印画紙の現像機1台ではすぐに間にあわなくなり、創業の翌年、翌々年と続けてプリンターを1台ずつ増設するが、それまでの建物にはもう機械を入れるスペースはない。フィルムの現像を手がけなければ東京カラー社の下請けの形は解消されない。それに幹線道路から脇道に入る住宅地では、車の出入りにも不便であった。
この問題を解決したのは藤澤グループの総合力だった。
■ 3年に2度の引越し
当時藤澤工業は、豊島区の2つの工場が周囲を住宅に囲まれて操業が難しくなり、浦和工場(現・さいたま市)に生産を集約する一方で、そのころ都市で建設が進みだした分譲マンションの将来性に着目して、建設業に進出していた。
そして、豊島区西池袋4丁目の藤澤工業第2工場の跡地に地上7階のマンションを建設する際、その1~3階部分にローヤルカラーを入れることとし、昭和42年4月建物が完工すると同時にローヤルカラーは本社と工場を移し、さっそく待望のフィルム現像機を設置して東京カラー社への依存を打ち切った。カラープリンターはその後の2年間で5台、49年にはさらに8台を増設した。
その3年後の昭和45年1月、ローヤルカラーは現在地の豊島区長崎1丁目に移る。山手通りに面した藤澤
工業の本社工場の跡地に地上9階、地下1階の藤澤グループ総合本社ビルを建設して、澤田五郎がひきいる事業の本社を集結したのである。結局3年の間に2回、小さくなった服を着替えるように移転を繰り返したのだった。移転先がどこも同じ区内だったのは、地域に築いた貴重な財産である取次店網を大切にしたかったからである。
さらにその後このビルに隣接して2棟のビルを建て、この一角はローヤルカラーの本山となった。業態は異なっても、藤澤グループ内の機能的、有機的な連携は現在も続いている。
■ 腕を広げる
初期のラボは、当然のことながら写真人口の多い東京はじめ大都市に集中していた。しかし写真人口の密度が薄い地域では、カラーフィルムの郵送制がなくなると、不便になる。
東京での激しい競争から首一つでも抜けだすためには、そういう地域まで営業の路線を伸ばしたい。ローヤルカラーは創立5年目の昭和44年7月、いちはやく長野市と前橋市に営業所を開設した。長野では現地のラボと提携して処理したが、前橋では取次店から集めたフィルムを営業所員が車で東京に運び、夜到着して仮眠、翌朝出来上がったフィルムとプリントを持って営業所に戻り、取次店に配った。ここにも澤田五郎の「トラック一杯の瓦と同じ金額の写真はバイクで運べる」という洞察力が活きた。
この方式で千葉、松本、上田と営業所を広げ、昭和49年には長野では提携したラボを吸収して直営の現像所とし、長野県内一円の処理は県内で対応する体制を作りあげた。首都圏でも、昭和46年から47年にかけて池袋、上野、渋谷、浦和、武蔵野と営業所を増やし、迅速な集配で日数を短縮する態勢を築く。
■ プロ、アマの垣根をこえて
通常カラーラボは、普通の人が普通のカメラ、普通のフィルムで撮るいわゆるアマチュアの写真を主に扱う。これとは別に広告や商業写真を扱うプロラボと呼ばれるラボがある。
アマチュアのラボは大量のフィルムを自動化された流れ作業で処理するが、プロラボは写真の大きさ、形、色調などを客の要望に応じて一品ずつ加工する。技術も営業の形も違うから、アマとプロの両方を手がけるラボは当時はなかったし、今も少ない。

ところがローヤルカラーは設立6年目にしてプロラボに進出する。昭和45年7月、姉妹会社として同じ建物の中に資本金1,000万円の株式会社プロラボローヤルを設立、大判の現像機、引伸し機、プロが多く使うリバーサルフィルムの現像機など、最新の設備をつぎつぎに導入した。 「職業写真家の撮影したフィルム原稿をもとにした業務」というのがプロラボローヤルの会社の目的だった。
この展開は創業6年で新会社を作るまでになったローヤルカラーの業績と日本の広告宣伝市場での写真の将来性、プロのコダック好み、一つの分野だけで規模を拡大することに対する澤田五郎の本能的な危惧、などに導かれたものだった。
しかし一番の原動力は、アメリカ旅行で目に焼きついたニューヨークのセントラルステーションの巨大な写真広告の迫力とカラーの美しさ、それを日本で、という澤田五郎の夢だった。この布石が後年ものを言うことになる。
■ ラボのデパート
ローヤルカラーは「ラボのデパート」と言われたことがある。どんなプリントでも引き受ける、デパートのように品揃えが多い、というのである。 「スーパープリント」は、オンリーワンのラボを目指す社員の気概が生んだ創意の一つの例である。
昭和45年のプロラボローヤル社の設立で手焼きの作業はプロラボローヤルに移り、ローヤルカラーが受けた手焼きの注文はプロラボローヤルに外注する形になった。しかしローヤルカラーの仕事は納期が短く料金は安いので、手間と時間をかけて単価が高い仕事をするプロラボの技術者はいい顔をしない。そこでローヤルカラーの若い技術者は、自社のプリンターで早く安く手焼き同様のプリントができる方法を開発して「スーパープリント」と名づけた。この技術はトリミングを求めるプリント作業に威力を発揮した。
プリンターはフィルムの画面を印画紙の大きさにレンズで拡大して焼きつける装置で、フィルムの画面全部をプリントするように設計されている。しかしトリミングは画面の一部分だけをプリントするので拡大の率はまちまちになる。普通トリミングはフィルムと印画紙の間隔を自由に調節できる装置で本当の手作業で行なっていたが、それには熟練を要し時間がかかる。
そこで考えたのはトリミングの規格化で、たとえばブローニーのフィルムでは大きさの異なる10のパターンを作り、客はこのパターンでトリミングの範囲を決める。印画紙が手札、キャビネ、六切の3種類なら拡大する率は30通りになる。
レンズも30本必要になるが、多くは既存のレンズに補助レンズを組み合わせて解決した。最終的には50本のレンズですべてのトリミングを可能にし、その後はもっと大きい四切のプリントもこのスーパープリントで対応した。パターンとレンズに同じ番号をつけて、レンズの交換を円滑にする工夫も加えた。 「手焼きのトリミングがオーダーメードならスーパープリントはイージーオーダーだ」とは、当時スーパープリントを開発したOBの言葉である。
スーパープリントは、プリンターにズームレンズが使われる昭和60年ごろまで、安くて早いローヤルカラーのトリミングとして定評があった。
■ 会社社会
高度成長の時代、企業は社員の生活の面倒をよく見ていた。当時会社は仕事の場であると同時に互助と親睦の場であり、会社がその場所や機会を提供し、金銭的に援助するのは当然のこととされていた。会社が社会だったのである。
とくに地方の中学高校を出て都市に就職するいわゆる金の卵たちにとって、大都会のカルチャーショックは今とは比べものにならないほど大きく、暮しも遊びも会社がみてやらなければならかった。 平成になると暗く汚く危険な職場をいう3Kなどという言葉が出てきたが、それ以前にはそんな職場環境のえり好みより、社員旅行があるかどうかというような福利厚生のメニューが会社を選ぶポイントだった時代があった。
ローヤルカラーの創立はそのような時代の最中だったが、兄弟会社の藤澤工業では以前から澤田社長が先頭に立ってその充実を図っていた。適度なレジャーは勤労意欲を向上させる、というのが澤田五郎の持論である。ローヤルカラーが藤澤工業の行事やイベントにグループ会社として参加する下地は整っていた。

また家を持つのはいつの時代でもサラリーマンの大きな夢だが、藤澤グループにはマンションの事業があった。ある時期、成績のいい社員にはグループが手がけたマンションを優先的に、価格面でも有利に融資とセットで斡旋した。
伊豆の河津にある保養所は天城山や今井浜に近く、澤田五郎の趣味の庭作りを活かした別荘風の建物で、温泉が楽しめる。ここは研修にもよく使われた。
社内ではお稽古ごとから囲碁将棋、お手のものの写真、各種のスポーツ等々のクラブ活動があったが、現在は人員構成の変化や世間の動向でほとんどが姿を消した。野球は東京都の実業団の2部リーグに登録していた時期があった。
だがなんといっても盛り上がったのは年中行事の社員旅行である。
グループといっても建設業と写真業では社風も社員の気質も違う。800人からの人数が酒を飲むうちには必ずもめ事が起きる。その仲裁は社長の役目だったという。旅館の酒を飲みつくし、夜中に酒屋を起こして酒を仕入れたというエピソードもある。世間でも社員旅行は昭和60年代には下火になり藤澤グループの旅行もとぎれて、平成2(1990)年7月のローヤルカラーだけでの2泊の北海道旅行が最後になった。



3 好事魔多し
■ 寝耳に水
昭和49(1974)年2月、ローヤルカラーは突然労働組合結成の通告を受ける。 「総評全国一般労働組合ローヤルカラー分会」である。労働組合の結成、団体交渉、ストライキは法律で労働者に認められた権利で、会社はこばめない。
日本の労働組合はその会社の社員だけで構成する企業内組合がほとんどである。これに対して全国一般労組には多くの会社の社員が加入する。会社ごとの分会の人数はわずかでも、団体交渉や争議には組合のメンバーとしてその道のベテランが乗り込んでくるから、経験のない会社はとても太刀打ちできない。ローヤルカラーも例外ではなかった。
■ 狙いは何か
総評(日本労働組合総評議会)は、戦後昭和の終わりまで、日本の労働界を同盟(日本労働組合総同盟)と2分するいわゆるナショナルセンターだった。
総評は結成当初から合同労組の設立を計画し、昭和30年に総評全国一般労働組合を立ち上げる。いわば総評直轄の組合であり、組合のない会社の労働者を組織化すべく総評傘下の組合が地域の会社に的をしぼって活動した。
中小の工場、商店、サービス業などの若い社員を、新しい組合作りが専門のオルグと呼ぶ活動家が「歌って踊って」などといわれるような集会に誘って会社の状況や不満を聞きだし、同僚を誘わせ、ひそかに設立の手続きを進めておいて、ある日突然ふたを開けるのが常套手段だった。社内ではいっさいそれらしい動きを見せないから、会社が事前に察知することは難しい。
当時のローヤルカラーは福利厚生には力を入れても、人事管理、労働環境に対する経営者、管理者の意識は必ずしも高くなかった。また急成長の会社にはありがちだが、中途採用と退職で人の出入りが多く社員教育も手薄だったから、その道の人間が見ればスキだらけだった。交代勤務、うす暗い職場、薬品のにおいなど、言わせるように仕向ければ勤務や作業環境など会社への不満を聞きだすのは簡単だっただろう。
総評の狙いは勢力拡大や待遇改善だけではなかった。同盟の労使協調路線に対して総評は階級闘争、資本主義体制の変革をとなえ、資本主義を象徴する会社をそこで働く労働者の力で崩壊させることが究極の目的だった。
■ 闘争と自滅
分会ができるとつぎつぎに要求を突きつけて団体交渉を要求し、応じなければストライキ、建物は支援団体が取りまいて会社を中傷するいわゆるアジ演説を大音響のスピーカーで繰り返す。同僚には仕事の手抜きをそそのかし、顧客が会社を見限るように仕向ける。ローヤルカラーも同じだった。客から預かったフィルムが混乱の中で多数行方不明になるという、ラボの生命にかかわる事態も生じた。
争議中の新たな組合員の増加は会社を動揺させる。若い社員は大学や高校で学生運動に加わったり見聞きしている。教師をつるしあげる快感を会社でも、という程度のことで組合に加わる。会社も第二組合で対抗したが、一時は120人中40人ほどの社員が全国一般の分会に加入した。支援団体に過激な若者の集団が加わって社内に乱入し、警官隊を入れる騒ぎになったこともあり争議は足かけ2年におよんだ。
この混乱にケリをつけたのは、分会の自滅である。会社は交渉には誠意をもって対応したが、不当と思われる要求や行為は労働委員会に判断をゆだね、裁判にも持ちこんで毅然とした態度を崩さなかった。
そのうちに、組合や支援団体の過激な行動に、会社はいったいどうなるのかという不安が分会の中にも広がる。まして争議が顧客にも迷惑をかける事態になると、職場と働く喜びを失う危機感が高まり、分会を離脱するものが出るようになる。
これは総評自体の体質にも共通することで、総評に加盟していた民間企業の組合の多くが総評の路線についてゆけず、労使協調の道を選んで総評をはなれた結果、平成元(1989)年に総評が解散するころには、総評は公務員の組合ばかりの特殊な労働団体になっていた。
総評の解散後、労働団体は昭和62年に発足した連合(全日本民間労働組合連合会)に一本化された。ただ合同労組の形は、雇用形態が複雑化する現在、かえって存在感を高めている。
結局、ローヤルカラーの分会は中心メンバーの退職などで自然消滅して、会社は平静を取り戻したが、この経験はその後の会社経営の大きな教訓となった。