第3章 広げる ―予兆の時代―
1 時代のあらまし 昭和50年~59年
■ 暗い幕開け
日本経済がオイルショックの尾をまだ引きずっているうちに、天皇在位50年の年が訪れる。それからの10年、名前をつけて呼ばれるような好景気は訪れなかった。元旦の新聞の見出しは完全失業率の増加を報じていた。
世界同時不況や円高不況は、国民に国境をこえた経済の連鎖を実感させ、昭和50(1975)年11月、フランスのランブイエで開かれた経済先進6カ国の第1回サミットに日本が加わったことは、世界経済の中での日本の地位を認識させた。
昭和50年4月、南北ベトナム戦争は北の勝利で終結、南を支えて戦争を主導したアメリカ軍は敗退し、ベトナム、ラオス、カンボジアの混乱はその後も長く尾をひく。中国では昭和40年代から続く文化大革命のうねりの中で、昭和51年4月の第1次天安門事件、同年9月9日の毛沢東の死去とその後の人事抗争事件等の混迷が続くが、昭和53年に日本とアメリカは中国との友好、国交正常化を進める。昭和54年12月、ソ連軍はアフガニスタンに侵攻する。一時的ではあったが世界の金銀相場は急騰して、写真材料の価格にも影響が及んだ。翌年にはモスクワオリンピックを西側諸国がボイコットする事態も起きる。結局ソ連は10年後に成果なくアフガニスタンから撤退する。
世界をアメリカとソ連の陣営に2分した冷戦構造の変化を予感させる10年間であった。
■ 一億総中流
日本も事は多かった。
列島改造論の田中角栄は昭和49年12月に金脈問題で総理を退いたが、昭和51年7月にはロッキード事件で逮捕、起訴される。赤軍派など過激集団の国内外でのテロ、成田紛争、倒産の増加と大型化、公務員や国鉄の長期ストなど、高度成長のひずみが各所に噴出する。
しかし日本のGNP(国民総生産)はこの10年でやはり2倍に伸びる。支えたのは日本の中流階級である。日本の企業の終身雇用制、年功序列制は一億総中流社会を作った。中流階級は巨大な消費集団である。そして消費はいずれ社会、会社、そして自分に還元されるという実感を伴っていた。
サラリーマンは自分が働く会社の信用と自分の将来を担保にクレジットカードで買物をし、ローンでマイホームやマイカーを手に入れ、自分の担保価値を高めるために懸命に働いた。この消費のエネルギーが新技術、新製品、新しいライフスタイルを創りだす。
■ 種まきの時代
いま身のまわりに当たり前のようにあるものの多くが、このころに種をまかれ、芽を出し始めていた。
電卓、パソコン、家庭のビデオカメラ、LPを追いおとしたCD、携帯電話の原型の自動車電話等々。さらにカラオケ、コンビニエンスストア、宅配便、テーマパーク、ATM、そしてテレフォンカードに始まるマネーカード等々。
共通するのはセンサー、IC、液晶、通信等、ITといわれる情報化の技術で、これはカメラでも同様だった。
2 写真が変わる
■ カメラが変わる
カメラメーカーはこのころ、電子回路と精密モーターを駆使したカメラのオートメーションに取り組んでいた。カメラ内蔵の露出計機能で自動的に露出を設定する全自動露出は昭和49年に始まっていたが、全自動焦点のカメラは昭和52年に実用化する。メーカーはさらにフィルムの自動巻上げ、フィルム感度の自動読み取り、それにレンズキャップの開閉にいたるまで自動化して、人はシャッターを押すだけのカメラを作ろうとしていた。
カメラの自動化は撮影の失敗を少なくする。アマチュアの「写真ショット失敗率」は、昭和46年は全ショットの約15%だったのが、昭和51年には約10%に下がったという統計がある。失敗の原因は露出の過不足、ピント不良、キャップ外し忘れ、フィルム送り不良などだが、この種の失敗はしようにもできなくなり、そのうちに統計もなくなった。
フィルムメーカーは昭和56年にフィルムの感度の規格をISOに一本化し、カメラが感度を読み取るDXコードをパトローネに印刷した。
一般向けのカラーフィルムの感度は長い間ISO100から200程度だったが、昭和52年ごろからISO400のフィルムが出まわりはじめ、ストロボもカメラに内蔵されて、撮影の環境が広がる。カメラはお父さんの大事なお宝から、お母さんも子供も気軽に使える道具になりつつあったのである。
■ 流れが変わる
このころ、テレビや冷蔵庫は東京の秋葉原から広まった家電量販店で実物と値段を見比べて買うのが当たり前になっていた。しかも安い。しかしカメラはまだ町の写真店やデパートで、店員がすすめるままに買うことが多かった。
昭和50年、東京新宿にカメラ量販店第1号が開店する。どのメーカーのどのカメラも手にとって見られる。そして安い。同種の店がつぎつぎに出来ると、カメラの購買様式は一変して、デパートのカメラ売場は姿を消し、写真店のカメラの売上げは微々たるものになっていく。
フィルムは逆の道を行った。一般向けのフィルムはメーカーも種類も少なく、完全包装で小さく軽く、扱いやすい。フィルムは販売の窓口を浅く広く、駅の売店から書店、スーパーへと広げ、タレントを使った大々的なテレビコマーシャルを打って拡販に出る。
■ ラボも変わる
流通の変化は町の小さな写真店の廃業に拍車をかけ、ラボは写真店以外の取次ルートの開拓にせまられる。それが「アザース」と呼ばれる取次店である。クリーニング店、タバコ屋から始まったアザースのD.P. E. の看板は、やがて本業が何であっても町中のいたるところで目にするようになる。
ラボの中にもエレクトロニクスの波は及ぶ。現像やプリントの工程のコンピュータ制御は当然として、毎日大量に扱うフィルムとそのプリントを間違いなく組み合わせて取次店に戻す商品管理システムもラインに組み込まれて、人手を省き、ミスをなくし、時間を短縮する。
ラボ全体の売上げの伸びは、その前の10年には及ばないが、この10年で処理枚数は約2.5倍、金額は約1.8倍と着実に増加する。写真市場全体の売上げは約1.6倍に伸びる。
そして昭和59年、ノーリツ鋼機で開発されたミニラボ機は、次の代のラボのあり方を大きく変えた。ローヤルカラーも当然これらの変化への対応を迫られるが、会社は今後の発展のための緊急の課題を抱えていた。
3 わざわいを転ずる
■ 根もとを固める
昭和40年代後半におきた労働組合問題に最も心を痛めたのは社長の澤田五郎だった。事業を断念しかけたこともあった、とのちに述懐している。しかしローヤルカラーはすでに社員250人、数多いラボの中でも全国のトップテンに入る、社会にも業界にも責任ある企業になっている。後にはひけない。
会社がさらに枝をのばすためにはまず根もとを固めなければならない。彼はそのためにはこれからは口も出すと決心した。
最初に形にしたのは、姉妹会社のプロラボローヤルとの統合である。プロの顧客と接するプロラボの技術者は職人的、芸術家的な気風が強い。またプロラボ間の技術者の引抜きもあって出入りが多い。このままではローヤルカラーとは異質の会社になってしまう。
両社の理念は一つである。同じ写真を業とする同じ社長の会社が同じ建物に二つあるのも不自然である。
ローヤルカラーがプロラボローヤルに仕事を依頼すると会社間の取引になって時間や費用がかかるという実務的な問題もある。
昭和50年2月、ローヤルカラーとプロラボローヤルは一対一で合併する。両社の資本に新株を加えた新会社の資本金は7,000万円だった。
特筆すべきは合併時点で両社は解散し、改めて新会社の「株式会社ローヤル」として出発したことである。これには吸収した会社、された会社というよくある合併のしこりを残さないよう、両社に共通する「ローヤル」を社名にしたという配慮があった。ちなみに藤澤グループの会社の株主は原則個人で、会社は株の持合いはしない。グループ会社に親子関係はなく、兄弟会社、姉妹会社と呼んでいる。
「ローヤル」は2年後の昭和52年8月に社名を「ローヤルカラー」に戻して現在に至る。
■ 人は城
業務の拡大と人員増に対応しきれなかった反省から、会社はまず上に立つ社員の意識改革に手をつける。
最初に行なったのは中間管理者の労務研修で、合宿形式で受講者同士の交流をはかった。使用者と労働者、会社と社員の権利義務、安全衛生、福利厚生などの法律と管理者の実務、会社の理念と従業員の意識、職場の人間関係等々、大部分の受講者が初めて聞く話が多かった。この研修は中間管理者の生の声を聞く場としても活かされた。
昭和51年からは毎年管理職研修を区の施設や金融機関の講堂などを利用して行なった。社会的な知識と教養を高め、人間の幅を広げるのが目的で、当時の社員約400名中、 主任以上の約100名を対象にした。
研修のテーマは社会情勢、日本と世界の経済、組織論、他社の事例と幅広く、質疑も活発に行なわれた。社長もみずから講師をつとめ、急成長企業の体質のもろさ、組織の弱さからの脱却を説いた。業界では定評のある社長の話は、ここでも聞く人をひきつけた。
この研修はのちに事業計画発表の場も兼ね、続いての社員決起大会、そのあとに取引先との懇親会も行なわれたが、それらはローヤルカラーの恒例の行事となって、毎年業界紙に取り上げられてきた。
新卒者を30名、50名と採用した時期には、それまでの新入社員説明会を研修会に格上げして会社生活の常識と心構えを植えつけ、同期の親睦を深める機会とした。
その後定期採用は少なくなったが、毎年東京都の勤労洋上セミナーに若手社員を2名ずつ参加させ、中国へ船で往復する約1カ月間の研修を、都の事情でセミナーが取りやめになるまで続けた。また毎年の海外各地の写真関係の展示会を社長や関係する部門の責任者が視察するときに、営業、総務、工場の成績優秀な社員を同行させて研修の機会を与えている。
昭和60年にコンピュータオペレーターの一部がまた労働組合を作り、腱鞘炎を問題にして団体交渉を要求する事態が起きたが、大きな混乱もなく短期間で組合は消滅する。10年積み上げた社内教育の成果であった。
4ラボ戦国
■ 総論好況各論不況
昭和50年代、写真市場の規模はさらに大きくなり、ラボも業界全体の売上げは伸びたが、個々のラボの内情は厳しかった。
全国で数万といわれた取次店は、アザースの増加で2、3年のうちに15万店を超える。アザース専門のラボも出来て数が増えるから、パイは大きくなっても取り分は増えないどころか減りかねない。当然競争は激化する。
まず価格競争である。昭和40年ごろ平均1枚70円だったL判のプリント料金は、50年には47円、59年には32円と下がり続ける。現像料を1本110円、280円、411円と値上げしても、フィルム1本で24枚、36枚プリントする料金の値下げはカバーしきれない。
ラボの川上にあるフィルム会社もまた競争を繰り広げる。
それまで日本の関税と物品税の引下げの様子を見ていたコダックは、昭和52年秋に日本法人を設立し、翌年には印画紙等の感光材料、そしてフィルムを値下げして国内メーカーを巻き込み、さらに系列大手ラボの現像料を1割下げる作戦に出る。
昭和54年12月のソ連のアフガニスタン侵攻で55年初頭世界の銀価格が7倍に高騰したときは、各社は仲よくフィルムや印画紙を値上げしたが、銀価格はすぐに下落し、その反動で競争はさらに激しくなった。
ラボとしては、資材の値下げで息をつきたくとも、場合によってはそれ以上のものを客に還元しなければ見放される。取次の手数料を下げれば取次店は他のラボにいとも簡単に乗りかえる。価格と同じように激しい時間短縮の競争に勝つためには、増加した取次店を短時間で集配する人手の負担に耐えなければならない。
ラボ戦国はついにプリントゼロ円の商法を生む。業界団体は秩序と協調を呼びかけるが、公正取引委員会の手前統制はできない。昭和59年夏には、激戦地の九州を抱えた西日本の大手ラボが倒産した。
■ 客に近づく
昭和40年代、ローヤルカラーは地方に営業所を作って東京の現像所とつなぐ方式で実績を上げた。しかしそのルートが長くなり入り組んでくると、効率は悪くなる。
そこで昭和50年代にはこれまで東京だけだった現像所を分散して地域の営業所との距離を縮め、競争の大きなポイントである時間で勝つ作戦に出る。このころ受渡しは朝取次店に出せば当日渡し、遅くても中1日渡しが目安になっていた。
昭和49年の長野に続いて、昭和56年8月に栃木県おもちゃの町、57年6月には千葉県市川市に現像所を開設し、東京と隣接各県、北関東、長野を押さえ、その中で取次店の密度を上げていく。ラボが客に近づいていくブランチラボの時代になったのである。
昭和58年5月には、広告代理店やプロダクションが多い東京の銀座に、営業所と現像所がある「プロフェッショナルセンター」を開く。一つの作品の完成までに何回も顧客との打合せがあるポスターや写真広告を扱うプロラボを、やはり客に近づけたのである。
■ 土俵を広げる
国産フィルムの拡販策で、一般用のカラーフィルムの出荷本数はこの10年間で2倍強に伸びる。その中でコダックは、アマチュアでもいわゆるマニアの層に好まれるフィルムなので、フィルム全体に比べて伸びが小さい。カメラが普及するほどその差は大きくなる。
コダックだけでやってきたローヤルカラーとしては、このままでは競争に勝てない。そこでラボとの連携がまだ弱かったサクラと交渉して、昭和52年4月、サクラカラーの現像所の指定を受けた。この設備を置くため、浦和市(現・さいたま市)西堀に浦和現像所を設立する。ここはその後道路網の発達につれて本社とは高速1本で結ばれ、北関東、信越方面のアクセスもよくなる。浦和現像所はその後昭和54年に約3,000平方メートル、昭和56年に5,000平方メートルと規模を広げ、本社工場の業務を取り込み、提携会社を吸収して、ローヤルカラーの総合現像所に発展した。
ここにはサクラと、コダックのエクタクロームとコダクロームの3種の8ミリフィルムの現像機も備えた。しかしその後のビデオカメラの普及で8ミリの需要は極端に落ちる。これは写真業界、ラボ業界が逃れられない宿命だった。
■ ラボの勲章
コダックにも手をうつ。コダクロームの現像である。コダクロームは独特の優れた色調と画質、100年保つといわれる超耐久性等でプロ、アマを問わず世界中に多くの熱心なユーザーを持つリバーサルのカラーフィルムである。
一般のカラーフィルムはフィルムに塗られた薬品の作用で色を出すが、コダクロームは現像液の中の薬品で発色させる方式の唯一のフィルムで、現像には厳しい工程管理と細心の作業を必要とする。コダクロームの現像は、アメリカのイーストマン・コダック本社がライセンスを与えた現像所でしか行なえない。
昭和56年8月、ローヤルカラーは同社と業務提携してコダクローム現像処理のライセンスを得る。技術習得のため5週間にわたって技術者をコダック本社に派遣したうえで、浦和現像所にリバーサル部を設けて専用の現像機を置き、翌年から処理を開始した。コダック本社との交渉開始から足かけ2年の期間をかけて、ローヤルカラーはいわばコダックの勲章をつけたラボになったのである。
ライセンスの取得には、ローヤルカラーの技術の高さがあずかっている。カラー写真の品質は被写体の色の忠実な再現にあるが、それは撮影者にしか分からない。コダックではラボのテストサンプルの色調、画質がコダックの規格の範囲内にあるかを見てそのラボの品質管理、技術水準を判定する。ローヤルカラーは常に総合Aランクの評価を受けていたのである。
■ 命の綱
ローヤルカラーは資本金1,000万円から出発して、合併や小きざみな増資で昭和50年には資本金は7,000万円になっていた。その後浦和現像所の開設等で昭和52年10月に1億円に増資したが、資本金は現在も1億円のままである。
ラボにとって設備の導入と更新は宿命である。しかも待てない。既存の設備で対応できないカメラやフィルムが売り出される日までには、そのための設備を導入し技術を習得して受入れの態勢を整えておかなければならない。
ラボは利益率の低い日銭商売である。自己資金はなかなか積み上がらない。となれば設備の導入には融資をあおぐほかはない。
ここでものをいうのが信用である。澤田五郎は何よりも信用を大切にして、自分と会社を信用してくれて、こちらも信用できる取引先と金融機関と付きあってきた。資金繰りが苦しくても支払日、返済日は必ず守る。世間にまだ遅配、欠配という言葉があったころでも、給与の支給を遅らせたことはない。社員が信頼しない会社は社会も信頼しない、という信念からだった。
信用が会社を支え、ローヤルカラーを設備競争に遅れをとらないどころか、業界の先頭に立つ会社にした。それは今も続いている。金は企業の命綱というが、その綱は信用がつなぎとめていた。
5 ラボの1日
全盛のころのローヤルカラー浦和現像所の1日はこうであった。
3交代制もあったが、2交代制では早番は朝8時30分から夕刻5時30分まで、遅番は夜8時から翌朝5時までの勤務が基本形だった。大伸ばしやトリミングなどの手焼きは、日勤の専門の技術者が処理する。営業員が取次店から集めて現像所に持ち込むフィルムは、午前11時までのぶんと夜8時までのぶんの2回に分けて締め切る。都内や近距離の取次店は原則1日2回巡回する。いわゆるクイック仕上げの体制である。連休明けなどでフィルムが集中する日は、管理職が手分けして出勤前に大手の取次店に寄ってフィルムを預かってくる。
遠距離の群馬県、栃木県、千葉県などは現地の営業所で集めたフィルムを車を飛ばして夜8時までに浦和現像所に持ちこむ。担当者はそこで仮眠して仕上がりを待ち、朝帰ってゆく。この形は現像所を地方に開設することで変わっていった。
■ 前作業
フィルムは取次店からの袋に入れたまま、フィルムのメーカーや種類、プリントのサイズ別に仕分ける。同時プリント以外の手焼き等の注文は別工程にまわる。
次にチェックラベルを取り付ける。ここで初めてフィルムと袋を別にする。今は機械にフィルムをセットすると、フィルムと袋にナンバーが印字されるが、以前はフィルムの末端を手でパトローネから抽き出してラベルを貼っていた。ラベルを貼ったフィルムをパトローネから出し、何本もつなぎ合わせて大きいロールにする。
現像機にかける前にはフィルムのパーフォレーションをチェックする。カメラでもフィルムを送るには両側の小穴、パーフォレーションに歯車の歯を引っかけてフィルムを動かす。フィルムの巻上げが自動化される前のノブやレバーを手で動かして巻き上げるカメラでは、力の加減でパーフォレーションの縁が破れフィルムが切れてしまうと取り返しがつかないことになる。パーフォレーションが傷んでいればその部分を補強して万全を期す重要なチェックである。


■ 現像、プリント、袋詰め
現像は映画フィルムの現像のノウハウを取り込んだ機械で、人手を介さずに行なわれる。時間や温度の制御の技術は格段に進歩している。現像を終えたフィルムはプリントの前に一度目でみて現像の調子をチェックし、ハーフサイズやパノラマの写真があればロールから外して別に処理する。
プリントはフィルムと指定されたサイズの印画紙のロールをプリンターに読み込ませると自動的に印画紙に焼き付け、それを大型のロールペーパー現像機で現像し、ロール検査、カッター、絵合せ、仕上りという工程を経て出来上がる。デジタルのプリンターでは最初にフィルムを高速のスキャナーでメモリーに読み込み、デジタルの画像を印画紙に焼き付ける。当時の高速プリンターは1時間1万枚前後の処理能力があった。
以前はそのあとにプリントを目でチェックして未撮影のコマや明らかに失敗と分かるコマのぶんを除いたが、現在のデジタルプリンターでは、プリントの前にフィルムをモニターを見てチェックできる。全数プリントといって料金を低く抑えるラボではこのチェックを省くという。
フィルムはカッターで6コマずつに切ってシートに入れる。これも今は自動化されている。
最後に取次店の袋にフィルムとプリントを戻して会計伝票をつける。取次店ごとにまとめ営業所別のコンテナに入れて、引取りを待つ。
このサイクルで都内や近くの取次店であれば、朝着いたぶんはその日の夕方に、その後のぶんは翌朝に取次店に戻る。近県は翌日仕上げになる。これがミニラボが出来る前に言われていた「クイック仕上げ」である。
■ 平身低頭
ラボがいちばん恐れるのは現像に失敗したりフィルムに傷をつけることである。二度と同じ写真は撮れないから客は怒るが、ラボもどうすることもできない。
フィルムメーカーは品質の問題で写真が駄目になったら同数のフィルムと交換してそれ以上の責任はとらないという統一基準を定めて表示している。ラボには補償の基準はなく、ケースバイケースで対応する。ともかく責任者が出向いて平謝りに謝りながら先方の出方を探る。
大伸しを何枚もサービスしたりフィルムを何本も提供したりするが、中には金で解決しなければならないこともある。大切なのは誠意を示すことで、クレームの話し合いからかえって親しくなった人もいた。
■ 今は昔
昭和60年代のはじめはアマチュア部門の全盛期で、一晩で1万4,000本の同時プリントを処理したことがある。手焼きや8ミリを入れれば2万本ぐらい受け付けたという。こういうときは夜勤明けの人が取次店に届けたり、早番がさらに早く明け方に出勤して機械を休ませずに作業を続けたり、手作業の袋詰めには近所の奥さん方のパートの人数を増やしたりして、次のフィルムが入る時間まで持ちこさないように全員総出の態勢を取って対応した。こういうときは取次店の場所や時間を考えて処理の順番を決める担当者のカンがさえる。
その後地方にラボが開設されると、浦和現像所の集中度は緩和されて一時のような活気は薄れる。さらに昭和60年代のミニラボの展開でメインラボの稼働率がさらに低下したところにデジタルカメラがあらわれ、ここで紹介したようなラボの日常は、今は昔の話となってしまった。