第4章 固める ―激変の10年 ―

1 時代のあらまし 昭和60年~平成6年

新時代の到来

  昭和60(1985)年からの10年は、世界も日本も、またローヤルカラーも大きく変化した10年だった。日本では昭和64年1月7日、昭和天皇が逝去されて年号は平成と改まる。歴代の天皇で最長の在位の間に史上最大の変革を経験した昭和時代が終わったその年に、世界は第2次世界大戦以降の枠組みを大きく変える。
 平成元(1989)年にソビエト連邦と共産圏の崩壊が始まる。昭和50年代からその前兆はあったとはいえ、世界を2分する大国の一方とその周辺の国家が信奉していた国体はもろくもくずれ去った。
 その年の暮に、米ソ首脳は冷戦の終結と新時代の到来を宣言し、世界は大国間の核戦争の恐怖からは解放されたが、それは世界の平和を意味するものではなかった。その後絶え間なく続く地域的な紛争は、民族や宗教の意識の高まりに大国の思惑がからんで拡大、長期化し、中でも産油国の多い中東の不安定さは世界の政治と経済を今もゆさぶっている。
 同じ共産国家でもソ連とは一線を画していた中国は一党支配を現在も取りつづけるが、自由経済を取り入れて市場を開放し、高度成長を世界に誇る国となった。

日本の新時代は?

 昭和50年代からの盛上りのない経済情勢が続く中、昭和60年には8月の日航ジャンボ機墜落事故とその翌日の当時史上最大規模の三光汽船の倒産が日本を揺るがす。その秋のアメリカとのプラザ合意による円高誘導は円高不況を招き、輸出企業救済、内需振興のため、日銀は長く続けていた5%の公定歩合を昭和62年には半分に引き下げる。
 このころから価格破壊という言葉が聞かれるようになる。デパートの半値以下で背広が買える大型店が幹線道路沿いにつぎつぎに現われる。物は悪くない。このような店はその後さまざまな業種に拡大し、これまでの物の価格の常識を変える。低金利が生産拠点の海外展開、大量仕入れ、大規模店開設の資金調達を可能にしたのである。
 低利の資金は投資の名目で土地や株式に大量につぎ込まれる。東京都区部の土地の公示価格は3年で3倍にはね上がり、株式は日経平均が5年で4倍近くに上りつめる。銀行と系列ノンバンクの湯水のような融資で絵画でも海外の城でも買いまくる熱気は、日本中をバブル景気に巻き込む。
 一時的な好況は人手不足を招き、初任給が賃金を押し上げて若者を異常な消費行動に走らせる。しかし地価も株価もあっという間に急落、損失と不良債権の山を残して、バブル景気は文字通り泡と消えた。
 その後、複合不況といわれる第1次平成不況、日本列島総不況の第2次平成不況、短期間のITバブル後の第3次平成不況と、日本経済は長く暗いトンネルに入る。GDP(国内総生産)の伸びも前の10年を大きく下回る。
 平成5(1993)年6月、宮沢首相の不信任案可決で衆議院は解散し、7月に行なわれた総選挙で自民党は過半数を割りこみ社会党は惨敗、自民党の離党組などが立ち上げた新党3党が躍進、8月の細川連立内閣から約3年間、3代にわたって非自民内閣が続き、日本の政治の新しい時代の到来を思わせた。また昭和60年には電電公社と専売公社、昭和62年には国鉄が民営化された。
 そして次の10年の幕開けの平成7年には、日本をゆるがす大きな出来事が待ちうけていた。

2 写真界にも新時代

ピークを極める

 バブル景気は当然写真の世界にも及んだ。景気の影響は写真の市場にはやや遅れて現われ、アマチュア写真市場は平成4年前後に一つのピークに達する。世帯普及率が85%に達して飽和状態となったカメラでは、それより早めに売上げの山を迎えていた。
 カメラの機械的な機能も極限に近づく。その前の10年で開発したカメラの自動化の技術の全部が一眼レフにも小型カメラにも取り込まれる。一眼レフではズームの交換レンズを持つ人が多くなり、小型カメラのレンズもズーム機能を備える。
さまざまなフィルム、印画紙など  こうなるとアマチュアの家族や旅行の写真では、カメラの違いも腕の違いもほとんどなくなる。重くて大きいカメラを持つことはない。高級感が売りものの一眼レフは、昭和50年ごろはカメラの年間出荷台数の43%を占めたが、10年後には15%に比率を下げる。ただし交換レンズの出荷は横ばいで、 根強い愛好家の存在を示していた。
 この二極分化を象徴するのが、昭和61年7月にフジが売り出したレンズ付フィルムである。その後フィルム各社は、望遠、ストロボから水中撮影ができるものまで、さまざまな機能別の商品を発売し、その手軽さが受けて年間8~9,000万本の出荷が続いた。
 それもあって、アマチュアの写真のショット数は、この10年の間に60億ショットから98億ショットに約6割増加し、右肩上がりは平成9年まで続いた。
 そして技術の頂点に近づいたカメラの次の可能性は、これまでの写真の歴史の流れを断ち切る方向に向かっていた。

ミニが変えたラボ

 昭和60年代にはラボの世界も一変する。場所をとらず暗室なしで現像とプリントを自動で行なう機械ミニラボの登場である。客はミニラボ機がある店にフィルムをあずけ、店は店内のミニラボ機で処理して、あとで客が取りに来る。町の写真店が店の奥の暗室でやっていたころと同じで、その店ですべてが完結する。ミニラボの仕上り時間は最初は数時間、やがて最短では15分を売物にする店も現われた。
ミニラボ機 QSS-701(ノーリツ鋼機開発の1号機)  昭和50年代にはミニラボ店はまだ少なく、急速に広まるのは水洗処理不要で設置が簡単な機種が出た昭和59年以降といわれる。ミニラボ店はほかの業種の店に比べて面積をとらず、機械の操作は簡単で1人でできる。既存の写真店は競ってミニラボを導入し、その数は10年間で全国2万数千店にふくれあがった。当初ミニラボ展開は写真材料の流通を乱すとして賛否両論があったが、やがてメーカー・ラボの競合と、導入店への感材製品等の系列化のシェア争いが激化していった。
 ミニラボがラボの経営に与えた影響は大きい。ミニラボ店は価格競争の新たな舞台となった。一つの駅の周辺にいくつもミニラボ店が出店すると、品質や時間やサービスに差がなければ、決め手は料金しかない。料金は大きく掲示してあって一目でわかる。どこかが下げればほかも下げざるを得ない。
 もう一つはラボ事業の見直しである。ミニラボを増やせばメインラボの稼働は落ちる。といって広い地域をミニラボだけではカバーできない。ではどうするか。自社のメインラボ、ブランチラボ、新たなミニラボの最適配置と分担など抜本的な対策をどこもが検討し、それにつれてラボ業者間の統廃合が活発になり、再編が進む。ミニラボの本格化以前の昭和58年に約700カ所あった系列ラボは、その後500カ所まで数を減らしている。

どこまで続く……

 バブル崩壊後の不況の中でも、全国のプリント枚数は平成9年までは増え続けるが、ラボはその恩恵に浴さなかった。売上げはそれより10年早く、昭和60年をピークに減少に向かう。プリント枚数に平均単価を掛けた金額は、全国でこの10年間に1%しか伸びなかった。昭和40年代の700%の伸びはともかく、50年代の70%にもはるかに及ばない。ミニラボはサービス競争の武器にはなったが、ラボ事業の救いの神にはならなかったのである。
 ラボは新たな収益源を求める。それはL判やパノラマサイズの大きい判のプリントだったり、年賀状やポストカードだったり、平成2年には年間1,000万人を超えた海外渡航者の旅券の証明写真だったりしたが、それはそれで競争がある。ラボ戦国に終わりはなかった。

3 ローヤルカラーの新時代

創業社長の死

 昭和60年、ローヤルカラーにも大きな波が打ちよせた。
 8月19日、創業以来の社長、澤田五郎が死去する。享年68歳。社長在任21年であった。
 戦時中の波乱に満ちた青年時代から、一代で藤澤工業を業界のトップ企業に育てあげ、ローヤルカラーをはじめ多いときは5つのグループ会社を率い、業界団体の役員も務めて、この年6月に入院するまで全力で働き続けた男の死であった。
 9月12日千駄ヶ谷の千日谷会堂で行なわれた社葬では、追贈された勲五等瑞宝章が遺影の前におかれ、業界や社員の代表、故人を敬愛する友人たちの真情あふれる弔辞がささげられた。ローヤルカラーの社長には小俣伸が就任する。
 故人の次男(長男は夭折)澤田廣はこの年4月、ローヤルカラーに取締役として入社、澤田五郎の健康の
 悪化から8月に専務取締役になっていたがまだ36歳、ローヤルカラーでの経験も浅いところから、先任の専務取締役の小俣伸が社長になった。澤田廣は藤澤工業の社長を継ぎ、グループ全体に目を配る役割をになう。

澤田五郎社長社葬(千日谷会堂)

ワンランクアップ

 小俣伸は昭和8年秋田県生まれ、社長就任当時52歳。高校卒業後上京して東京信用金庫に入社、夜間の大学の法科で学んだ努力の人だった。昭和46年澤田五郎に乞われて当時のプロラボローヤルに取締役で入社、その後ローヤルカラーの営業、商品販売、業務等の責任者を経て昭和51年に専務取締役となり、会社の実務を切りまわしていた。
 社長に就任した小俣伸が力を入れたのは、組織力の強化だった。カリスマ的なリーダーシップで会社をひきいた澤田五郎を失ったローヤルカラーは、これからは組織の力で進まなければならない。
 金融機関の視点で多くの企業を見てきた目には、ローヤルカラーの体質はまだもろい。規定の整備などの社内制度の確立とあわせて、組織の長の質を高めなければならない。彼は会社のワンランクアップを唱えて日常的に管理職を教育し、提案制度、TQCなどの職場活動を通じて、社員に会社と仕事に誇りを持つことを説いた。
 しかしその小俣伸が病に倒れ、社長就任後わずか1年4カ月で昭和61年12月30日に死去する。ローヤルカラーは2年で2人の社長を失ったのである。

小俣伸社長社葬(中野坂上・宝仙寺)

 急遽開かれた臨時取締役会の結果、昭和62年1月1日、澤田廣がローヤルカラーの第3代社長に就任する。ローヤルカラーは当時社員約300人、全国ラボの売上げランキング8位の企業である。その社長職には、そのころ兆候が見え始めたバブル景気と、また当時は誰も予見しなかったバブルの崩壊と、その後の不況下での舵取りの重責がかかっていた。

変えたもの

 いずれはという意識はあったものの、思いもかけず早くに座ることになった社長の椅子である。大学で学んだ経済の知識と、他の会社で働いた経験でローヤルカラーの経営を見てきた澤田廣は、会社の何を守り、何を変えるかを考えた。
社名・ロゴの変遷 右下が現在のマーク  まず変えたのは、グループの意識だった。藤澤グループとはいうものの、藤澤工業とローヤルカラーに強い資本関係はなく、あえて言えば両社の大株主である社長が同じ人ということしかない。それでもこっちが悪くてもあっちがよければ、という甘えが抜けきれない。それでは創業社長が瓦と写真という関連のない業種でリスクを分散した哲学が活きない。業種が違っても共倒れはある。変えるべきはもたれ合いの意識である。
 まずグループ内の株を整理して、ローヤルカラーをあえて背水の陣の立場に置いた。そして自立に向けての経営基盤を固めるため、従来進めてきた合理化、近代化に加えて、アマチュア部門の収益低下に対処する集中処理、市場のニーズに応じたミニラボ体制、プロ部門の強化、そのための数億円余の設備投資、集配など営業の機能の改善等の方針が打ち出された。
 澤田廣はこの構想がまとまるまで社長就任披露を行なわなかった。多くの関係者を招いて社長就任を披露したのは昭和63年7月14日、ニューローヤルのスタートの年として池袋のホテルメトロポリタンで開催した創立25周年記念の会の席上だった。
 平成元(1989)年7月には社員から募ったデザインをベースに会社のマークと社名のロゴを新しくし、ニューローヤルの信頼・誠実・伝統・躍動・新鮮のシンボルマークとして発表している。

守ったもの

 澤田廣が創業者以来の信条を継いで守ったのは、信用である。今でいう情報公開と説明責任が、信用を得る大切な手段であることを澤田廣は知っていた。毎年の管理職研修会を事業計画発表の場にして、その後の決起大会で実績と計画と重要な施策を社員にオープンにする。この様子や数字は業界紙に掲載される。記者たちを伊豆の保養所に招いて懇談することもあった。
 金融機関にも同様に会社のありのままの姿とその改善の計画を示し、それを実績で裏づけて見せた。その誠実でオープンな人柄は金融機関にも人脈を広げ、その後のいくつもの大手都市銀行との取引につながっている。

社員の集い(平成8年、新高輪プリンスホテル)で挨拶する澤田社長

会場風景

実践女子大学ATLASチアリーディングの演舞

 労働時間、休日などの世間の動向を見さだめ、変則的な勤務が多いラボ業界の先頭を切って週休2日や長期休暇、永年勤続者のリフレッシュ休暇や旅行券の贈呈などの労働条件の改善に努めたのも、創業者の心を継いだものだった。
 澤田廣は新製品、新技術、新設備等に強い関心を示す。時に業界の異端児と評されることもあったが、他に先がけて新しいものを取り入れる気質は父親の血を感じさせるものだった。ただそれまでありがちだった技術偏重の現場まかせの空気を一掃し設備過剰を戒めたのは、守りながらも実は新しい風を社内に吹き込んでいたのである。
 多くの企業が借金までして不動産投機などに走ったバブル期に、その動きをいっさい見せなかった堅実さも、守ったものの一つだった。

4 バブルのあとさき

線から点へ

 ローヤルカラーは昭和59(1984)年1月、埼玉県のニューシャトル大宮駅に取次店の1号店を出し、5月には東京駅八重洲口に2店目を開く。通勤客が行きにフィルムを出し、帰りに写真を取りに寄る。駅構内の取次店は全国でも初めてで、客の行動に着目してラボのほうから客に近づいたローヤルカラーの試みは、その後ミニラボ店が全国的に広まる一つの契機となった。
 ローヤルカラーは、顧客、取次店、営業所、ラボの間を往復する線を最短にするとミニラボという点になると考え、処理能力が高く設置も操作も簡単なミニラボ機の開発が進んだことから、ミニラボの直営店の開設に踏みきる。フィルムなどの売上げも魅力だった。直営店の第1号は昭和60年3月、長野県松本市南松本駅前ダンダン商店街に開設した。

クイックフォト35 モデル店舗新所沢店     直営ミニラボ1号店 ダンダンカメラ(松本市)
クイックフォト35 1号店(本社別館1階)     クイックフォト35 2号店(長野店)オープン当日

ローヤルカラーはまだ写真の量的拡大が続くいいタイミングで直営店を立ち上げた。従来営業所を置いていた首都圏、北関東、長野県で数多くの直営店を出店、閉めた店もあって最多だったのは平成14(2002)年の85店である。店の名前は「クイックフォト35」 。35は35ミリフィルムと35分仕上げを意味していた。直営店の展開は、北関東、長野の営業所の統合を促進するなど、経営の効率化に貢献した。

客商売

 直営店展開の大きな要素は人だった。仕事は誰でもすぐに覚えられるが、ローヤルカラーの人間がフィルムを持ち込む客と対面するのは初めての経験であった。
 本社の直営店開発の責任者は、立地を選んで店を開設すると店員の教育にかかる。直営店は社員1人にパート1人という構成が多い。直営店は地域に密着した町の商店で、社員はその主人である。機械の操作のほかに接客、販売、金銭管理、その他店の管理運営いっさいを1人でこなさなければならない。ミニラボの来店者は7割が地域の女性で、店の評判、主人の評判は口コミで広がる。
 まず教育したのは信頼される写真づくりで、失敗が許されないフィルムの取扱いの重要性と、プリントの品質の安定を強調した。客に信頼される店のイメージ作りでは、明るいきれいな店、レイアウトやフィルムやアルバムなどの商品の陳列の工夫、掃除・整理・整頓の3S、笑顔と明るい挨拶と客にひとことアドバイスする積極的な姿勢を強調し、箇条書きにして店の奥に貼り出した。
 店の運営のコツとしては、35分仕上げといっても皆が35分後に取りに来るわけではないから、何時ごろ取りに来るかたずねておけば作業の段取りがつけやすいこと、クレームをつけられそうなことがあったら、先手を打って客に電話して謝罪することなどを伝授した。
 いちばん恐いのは社員の急病などで店が開けられない事態である。そのために直営店と担当の営業所は毎日連絡を取りあい、いざとなれば営業所からピンチヒッターが駆けつける態勢になっていた。本社の直営店担当者は、1年のほとんどを直営店まわりに費やしたという。

発信するラボ

 カメラのブランドやフィルムのメーカーはよく知られていても、ラボは顔が見えない。自分が出したフィルムの行先を知る人は少ないし、直営店にも社名は出ていない。写真店が地域の愛好家のクラブを作ることはあっても、大きいラボが一般の客にその存在を発信する例はまったくなかったといっていい。
 ローヤルカラーは平成2(1990)年からアマチュアのフォトセミナーを開催する。 「コダクローム一日実践写真教室」と名づけ、条件はコダクロームの使用、会場は浦和の現像所から近い別所沼公園である。午前中にモデル撮影も含めて受講者が撮影したフィルムは浦和現像所に運ばれ、別所沼会館での昼食が終わるまでにスライドに仕上がる。午後は参加者全員でそのスライドを見ながら著名な写真家の講評を聞き、コンテスト、表彰と続く。
 この催しはアマチュアでもレベルが高いと言われるコダクロームの愛好家を十分満足させ、100人の定員がすぐに埋まる人気を呼び、数年間続けられた。
 プロ部門では、貼るのもはがすのも容易な新素材「コニカカラーペーパーピーラブル」に独自の技術を加え、商店のシャッターに転写するシャッターフォトを開発する。その際、本社から遠くない商店街のシャッターに地元の小学生の絵60点を大きく伸ばして貼りつけ、 「町は美術館」と銘うったイベントを催した。細かい曲面に施工して、毎日巻き上げ巻き下ろす厳しい条件にも耐えるこの素材には、業界の見学も多かったが、ラボから地域への発信として一般紙の記事にもなった。この素材はその後「ファインマテリアル」という商品名で、いわゆる銀塩の技術での広告写真の素材として発展してゆく。

孝行息子

 昭和63年7月14日に行なわれた澤田廣の社長披露の会場の正面には、光の中に「躍動」の文字が浮かぶ縦1.8メートル、横8.5メートルの一枚物の超大型プリントのパネルが掲げられた。これは当時プロラボ部門に導入した大型プリンターの作品の披露でもあった。
 大きい広告写真は珍しくなくなったが、一定の大きさを越えると写真を継ぎ合わせなければならない。何枚にも分割してプリントした写真を継ぎ目が目立たないようカットし、ズレがないよう貼り合わせるのは大変な作業である。その作業を軽減する超大型のプリントの広告業界の要望は強かった。
世界最大級の球面広告媒体(出力から施工まで)  ローヤルカラーは早くにプロラボを立ち上げ、広告関連の業者の多い銀座でプロ向けの現像所を拡大して迅速なサービスを売り込んだ。また平成元年3月、ファッション、デザインの中心地となった青山に「プロフェッショナルセンター」を開設してプロの分野に力を入れ、新しい素材や加工技術を積極的に取り入れてきた。巨額の宣伝費で知られるある大企業の広告の写真は、ローヤルカラーと感材メーカー系の大手ラボとで2分していた時期もあった。
 ローヤルカラーの売上げは平成8年が最高だったが平成4年にも一つの山があり、その少し前からアマチュア部門は量的にはまだ増加傾向にあっても、バブル崩壊の不況で先行きは読めず、価格競争で利益は低下していた。
 結果的にそれをカバーしたのはプロの部門だった。プロ部門の強化につとめてこなかったら会社の現在はなかっただろう。それは多くのラボの運命が証明している。当初姉妹会社として発足したプロラボは、ローヤルカラーの孝行息子だったのである。
 広告写真を掲出する場所は、コインロッカーのような平面に限らず、自動車のボディの複雑な曲面などに際限なく広がる。大きさも限りがない。のちの平成15(2003)年には表面積1,000平方メートルの半球形の広告塔に貼る広告写真の製作と施工を手がけている。球面にあわせた正確なカットとズレのない施工は海外でも話題になった。

 

鉄道交通広告の先駆け JR原宿駅ホーム対面広告

プロラボローヤルのラボワーク(昭和50年ごろ)

写真店の通信簿

 アマチュア部門も手をこまねいてはいなかった。写真入りの年賀はがきなどを業界ではポストカードと呼んでいるが、そのポストカードに積極的に乗り出した。
 写真入りの年賀状を自作するマニアは前からいるが、手間と費用がかかる。昭和50年にラボ2社が年賀状の注文をとったのが営業としてのポストカードの始まりと言われるが、当初ははがきサイズのプリントの裏にはがきの表の面になる薄い紙を貼りつけたもので、手作業のため受注できる枚数は限られていた。しかしこれにフィルムメーカーが注目して、既製のはがきに貼れるような薄いプリントを開発し、写真入りのお年玉つき年賀状が出せるようになり、作業も機械化して市場の拡大に弾みがつく。その後結婚、子供の誕生、転居などの挨拶のはがきも増えて、取次店にはフィルム会社のポストカードのポスターが1年を通して見られるようになる。
 「ポストカードは写真店の通信簿」といわれる。客数や販売の熱意など写真店の実力はポストカードの売上げに表われるという意味である。それで写真店でも力を入れた結果、昭和56年には全国で年賀状1,000万枚、トータルで1,700万枚を越す商品に成長した。
 ところでローヤルカラーの定款には、 「カラー写真グリーティングカードの制作およびその販売」が会社の目的の一つとして書かれている。創立時にポストカードの将来を予見していたわけではないだろうが、ローヤルカラーがポストカードに着手するのは平成元年からである。この年は80万枚の目標に対して91万枚の実績を上げて幸先のいいスタートを切る。その後もシーズン前には年賀状の宣伝をプリントの袋に入れたり、ビデオテープを景品につけたりして、年末商戦の目玉と位置づけて毎年目標を掲げて力を入れている。ラボにとってポストカードの8割前後を占める年賀状は、秋の行楽シーズンが終わってアマチュアの注文が少なくなる11、12月の売上げをカバーでき、1枚の写真で数十枚、100枚とプリントするので効率がいい、納期が長く作業が計画的にできる、などのメリットがある。
 デジタル化で写真の加工や文字の取込みなどが容易になると、フィルムメーカーがあらかじめ用意した何種類もの背景やキャラクターに自分の写真を組み合わせられるようになり、ローヤルカラーも平成18年からはデザイナーズポストカードとしてオリジナルのパターンのポストカードを始めている。
 ただアマチュア部門の退潮を食いとめる期待を担うポストカードも、デジタルカメラとパソコンでの自作の年賀状と何よりも年賀状離れの影響で、全国では平成11年の約4億枚をピークにその後は下降を続け、平成18年は2億枚と半減している。
 ローヤルカラーのポストカードは平成17年に470万枚と最高の実績を上げたが、翌18年にはコニカ(旧サクラ)がフィルム事業から撤退した影響もあって240万枚と10年前の線に落ちこむ苦戦を強いられている。いかにその影響を脱して業績を回復させるかにポストカードの今後がかかっている。

歴年年賀状(1989年~2008年)

変化への予感

 平成2年、ドイツの大手フィルムメーカーのアグファが日本に進出する。同社の売上げは欧米向けの製版用、医療用フィルムが主だったが、日本での狙いは一般用カラーフィルムで、ラボを問屋としてミニラボ店、取次店などに卸すという販売のルートを考えていた。
コダックプレミア機  ローヤルカラーは以前からアグファのラボ関連の機械に関心を持っていた。アメリカの機械は償却が終わるころには機械の寿命が来るような、合理的であっても見方によっては粗雑な作り方をしている。アグファの機械は裏側もていねいに仕上げてあり、手入れをすれば長く使える。
 その年のラボシステムショーで発表されたアグファデジプリント機をみた澤田廣は、ラボの生き残りをかけてその場で購入を決断し、フィルムメーカーが研究用に入れた1台を別にすれば、実用での第1号機を導入して翌平成3年稼動を開始する。 「デジプリント」はリバーサルフィルムから印画紙にプリントする設備である。
 リバーサルフィルムはスライドで見ると実物より色がいいなどと言われるが、プリントにその色が出せない。従来の化学反応による発色の限界をアグファはデジタルの技術で解決した。デジプリントは画像の処理をデジタル化した最初の機械だった。ローヤルカラーのデジプリントはプロ、アマを問わず、スライドで見る通りのプリントを要求するリバーサルフィルムの愛好者の人気を呼んだ。
 平成4年には広告写真のためにコダックプレミア機を購入する。写真の変形、合成、色や画質の変換、文字入れなど、デジタルの画像をコンピュータソフトで処理する装置である。今ならパソコンにでもある画像処理のソフトの原型だが、それまで手で写真を切り貼りすることもあった現場にとっては革命的な機械だった。高額なため初期の償却費用の業績への影響が懸念されたが、最新の技術で若い社員に刺激を与え、独自の技術と品質で勝負するラボへの脱皮を期待して導入に踏みきる。
 当時ローヤルカラーの技術者の1人は、写真のデジタル化について「今はフィルムからメモリーに画像を読み込んでいるが、いずれカメラから直接記憶させるようになるだろう」と言っている。カメラはその方向に動いていた。

5 ある機械の系譜

同時プリント

 ラボの設備の主役はプリンターである。その変遷をローヤルカラーが導入した機械で見てみよう。
 ラボが処理するアマチュアの写真のほとんどは、フィルム1本の全部のコマをサービス判の印画紙にプリントする同時プリントである。
 プリントの料金が相対的に高く、撮影の失敗が多かった白黒写真のころ、写真店では35ミリフィルムを現像すると印画紙に密着で焼き付けるいわゆるベタ焼きを作り、客はそれを見て引き伸ばすコマを選び、名刺、手札、キャビネなどのサイズを指定してプリントを依頼していた。フィルムを現像に出すのと、引伸しを依頼するのと、プリントを受け取るのとで、客は写真店に何回も足を運んでいた。カラーフィルムでは、現像もプリントもはじめはフィルムメーカー、その後はカラーラボと、客から離れた場所で処理するため、最初から現像と全部のプリントをセットにした同時プリントで行なわれてきた。プリンターはこの同時プリントの高速化と高品質化を課題に開発が進められた。なお文中の機械の型番等は多少相違があるかもしれない。

高速から超高速へ

 ローヤルカラーが発足した昭和39年は、日本では同時プリントの機械が普及しだしたころだった。当時のプリントの作業は、従来の町の写真店と同じまったくの手作業で、規模が大きいというだけのことだった。
 昭和41年に西池袋に移転して使い始めた「コダック5S―2カラープリンター」がローヤルカラーとしては初めての同時プリントの設備だった。それまでは印画紙を1枚ずつ手でセットしていたのが、ロール状に巻かれた印画紙を機械にセットしておけば焼付けも現像も連続して流れるので、プリントのスピードアップの大きな節目になった機械だった。ただしフィルムは未露光のネガなどがないか1コマずつ見ながら送っていたので、この機械のプリントの能力は計算上1時間1,800枚だったが、実際はネガの確認の時間に左右された。
 昭和54年に導入した「コダック2610コンピュータプリンター」では、それまで1本ずつプリンターにセッ
トしていたフィルムを、何本もつなぎ合わせた大きなロールで処理できるようになり、フィルムの現像の時間も含めて処理のスピードが大幅に上がる。ジャッジと呼んでいるネガの確認は現在処理中のネガの3枚後の画像で行なえるようになり、問題がなければ機械を止めることなく作業が進められた。処理能力は1時間7,000枚だった。
 ほぼ同時期の「コパルカラープリントシステム」からは、ネガのジャッジは専用の装置で事前に行なっておくプレジャッジ方式になり、プリンターは完全に自動化、無人化される。
 その後昭和60年から平成2年ごろにかけての同時プリントの最盛期には「コダック3510」 「アグファMSPオートプリンター」を導入する。コダックは1時間1万枚の高速自動無人機、アグファは超高速自動無人機といわれる1時間1万8,000枚の能力を誇るプリンターだった。加えて印画紙とフィルムの送りのズレや、露出時間の不調などの不良率がコダックの約12%に対してアグファは約7%で、ローヤルカラーがアグファの技術を高く評価するポイントの一つとなる。

アグファ高速プリンター MSP     アグファDPSデジタルプリントシステム
ノーリツ鋼機社ミニラボQSS-2402     ノーリツ鋼機社ミニラボQSS-3201

 「アグファMSP」は全部で3台を導入し、アマチュア部門のプリンターの最強のラインナップとなった。その後は直営店の展開でミニラボ機に目が向けられ、現像とプリント一体処理でネガをモニターでジャッジする大型ミニラボ機「ノーリツQSS―2402」 、デジタルミニラボ機で四切までプリントでき、画質は最高といわれる「ノーリツQSS―2901」などを導入してきた。
 ミニラボ機は、その後はデジカメプリントやCDの書き込みなどの機能を加えて今も開発が続いている。

持ちつ持たれつ?

 ここにあげたプリンターはラボの設備のほんの一部にすぎない。ラボと機械メーカーとは持ちつ持たれつと言われたが、ラボはむしろメーカーがつぎつぎに打ち出す新機種に追いまくられ通しだったと言える。償却やリース料の重荷にあえぎながらも新規の設備を導入せざるを得ないのは、ローヤルカラーに限らずラボ業界の宿命だった。ラボは機械メーカーに奉仕してきたようなもの、というグチが聞かれるゆえんである。
 ちなみに「天然色写真現像焼付設備」の法定耐用年数は6年である。