第5章 羽ばたく ―激動の渕から―
1 時代のあらまし 平成7年以降
■ 世紀を越す不況
平成7(1995)年の元旦の新聞には、 「 〈豊かさへの前進〉終止符」 、 「 〈混迷の時代〉針路手探り」 、 「 〈勤勉さ〉の自負も揺らぐ」 、などの見出しが並んだ。この見出しは13年後の今もそのまま通用する。その平成7年が明けて間もない1月17日の阪神淡路の大震災は、自然の中の人間の営みの無力さをまざまざと見せつけ、その2カ月後の3月20日に起きた東京の地下鉄サリン事件は、事件の直接の衝撃に加えてのちに明らかになった不気味な事実が人の心を凍りつかせた。
その後大規模な自然災害は当時にも増して地球上のいたるところに発生し、また21世紀の最初の年である平成13(2001)年9月11日のアメリカの同時多発テロに象徴される暴力、武力の応酬は今も世界各地に絶えることがない。
■ 晴れやらぬ雲
戦後の日本経済は、ドルショック、オイルショックなど特定の原因による景気の減速と、その不況を克服してまた上昇する山と谷を繰り返しながら、 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるまでに成長した。しかしバブル崩壊後の日本経済はその軌跡を見失った。この時期を複合不況と呼ぶように、資産価値の減少、金融機能不全、失政等々、単純には説明しきれない数々の事象が交錯した不況だったからである。「失われた10年」と言われる平成不況は平成14年には収束し、以後はいざなぎ景気の記録を超える長期間の成長が続いていると言われるが、多くの国民にその実感はない。これほど低い成長率がこれほど長く続いたことは、過去の不況期にもなかったのである。
この時期、政治や企業経営の透明性が求められ、社会の価値観の多様性に応える商品やサービスなどの新しい潮流が生まれたのも事実だが、バブル崩壊の暗雲は今も晴れやらず、先行きの混迷の度は深い。
■ 中流の夢
平成不況を境に、戦後に築かれた日本の産業構造、雇用形態が崩れ始める。一つは製造業の海外移転による空洞化であり、一つはリストラという名の企業の人員削減である。長く2%台だった完全失業率は平成7年以降4~5%台に高まり、労働市場は買手優位となる。企業は人件費削減を至上の命題として正社員を減らし、パート、派遣社員など安価な非正規雇用者を多用したため、日本的な雇用慣行は失われ、日本を一大消費国家に押し上げた一億総中流社会の夢は消えて、いま格差社会の現実が日本をおおい始めている。
いわゆる正社員も昇給停止、賞与削減などで給与所得は実質的には減少し、それが国内消費にはね返る。
国民の総消費支出の伸びは、平成6年以降は数年を除いてマイナスが続く。
今の日本経済は、グローバル化の乱気流の中を借金財政の重荷を積んで輸出依存の片翼だけの低空飛行が続き、上昇の機運はなかなか見えてこない。これまで発展途上と言われたいくつかの国の目ざましい経済発展がまぶしく見えるほどである。
そんな中で、写真界にはその歴史をゆるがす出来事が待ちうけていた。
2 写真の新世紀
■ 写真の歴史と「銀塩」
20世紀の写真と21世紀の写真との間には、断絶といっていいほどの変革が起きる。デジタルカメラの登場である。これまでの「写真」の常識はくつがえる。その象徴が「銀塩」という言葉の復活である。フィルムで撮影して印画紙で見る当たり前の写真を、古い専門用語を持ち出して「銀塩写真」とわざわざ断わるようになったのである。今までの写真はなぜ銀塩写真なのか、写真の歴史を振り返ってみよう。
暗い部屋に小穴を通して射しこむ光で外の景色が壁に写ることは古くから知られていた。西暦1700年代のヨーロッパでは、レンズをつけた箱の背面のすりガラスに像を写し、紙をあてて写生する道具、カメラ・オブスキュラが流行した。暗い箱という意味で、今のカメラの原型であり語源である。しかし物が動けば像も動く。ある瞬間の像をとらえて保存できないか。
1800年代になると、 光に反応して性質を変える物質にその可能性を求めて多くの試みが行なわれた末、1839年にフランスのダゲールが銀の化合物を使う実用的な写真術、ダゲレオタイプを発表する。この技法は急速に広まり、天保11(1840)年とも嘉永元(1848)年とも言われるが日本にも渡来する。日本で初の営業写真師として有名な上野彦馬の父の俊之丞がオランダの船員から写真術を伝授されたという。俊之丞は長崎奉行所お抱えの絵師、時計師で蘭学にも通じた才人だった。天保説では、翌天保12年俊之丞が薩摩藩主島津斉興の世子斉彬を撮影したのが新暦の6月1日に当たり、これが写真記念日の由来とされている。ただその後の研究では嘉永説が有力視されている。
ダゲレオタイプでは銀の化合物を塗った銅板に直接画像が形成されるので、1回の撮影で出来る写真はその銅板1枚だけだったが、数年後にはネガとプリントの技法が発明される。感光物質を塗った薄紙に明暗が逆の陰画を作り、その紙を通した光でやはり銀の化合物を塗った印画紙に陽画を作る。焼増し、引伸しを可能にした、いわゆるネガポジ法である。
感光物質を塗る基材は銅板から紙になり、ついでガラスになり、撮影のたびに薬品を塗る湿板から薬品を塗って乾燥させておく乾板になり、重いガラスから薄く軽いセルロイドのシートになり、やがて1本で何枚も撮影できるロールフィルムへと形を変え、昭和30年代には可燃性のセルロイドが不燃性の材料になる。しかし感光物質としての銀の化合物も、カメラ、フィルム、印画紙の3点セットも、現像、定着、焼付けのプロセスも、この百数十年間基本的には変わっていない。
一方で色を写す写真への欲求は強く、かなり早いうちから多くの人が実現に取り組んで、1800年代にもさまざまな技法のカラー写真がアメリカやヨーロッパで発表されている。実用的なカラーフィルムは、アメリカの音楽家で写真マニアの青年2人の研究を見込んだコダック社が2人を研究所のスタッフにして開発し、昭和10(1935)年に売り出したコダクロームが最初だった。コダクロームは色は絶賛されたが、現像液で色を出す方式のため現像が難しいという問題があった。
その難点をフィルムに塗る薬品に発色剤を入れることで解決したのはドイツのアグファだったが、第2次世界大戦でドイツが敗れるとアメリカは賠償としてその特許を押さえて世界に公開してしまう。それで世界の写真のカラー化が大きく進んだという。
しかしどの方式のカラーフィルムでも、感光材料はやはり銀の化合物だった。これまでの写真はすべて「銀」の写真だったのである。
それでは「塩」とは何か。化学的に塩(えん)と呼ぶ性質を持つ化合物は数多くある。一つ一つに正式な化学名はあるが、銀の化合物で塩の性質をもつ物質はひっくるめて「銀塩」 、金であれば「金塩」と呼んでいた。写真に使う何種類もの銀の化合物はどれも「銀塩」で、ほかに青写真や日光写真の「鉄塩」や、特殊な用途の「クロム塩」などがあり、区別のために「銀塩」写真という言い方をしたといわれる。
「銀塩」写真、略して「銀」写真という言葉が今の時代に復活したのは、鉄やクロムとの区別ではなく、デジタルカメラ、デジタルの写真と区別するためで、フィルムを使うカメラ、フィルムで撮った写真という意味で使われている。ということはデジタルカメラはフィルムを使わないということも意味している。
■ デジタルカメラ
デジタル(digital)は、指とか数字の桁をいうデジット(digit)からきた言葉で、せまい意味では電子計算機内のデータの表わし方を言ったが、今は電子回路を使う機器というくらいの広い意味で使われている。
昭和40年代の後半に、あるフィルムメーカーの社長が、ダゲール以来写真で消費した銀資源の将来を懸念して、また1世紀以上変わらない写真の原理や方式への挑戦として、銀を使わない写真の夢を語っている。そのヒントとして電子複写機をあげているのは、電子技術にその可能性を予感したのだろう。

その20年後、デジタルプリンターを見たローヤルカラーの技術者の1人が、いずれカメラから直接画像を取り込むようになる、と言ったことは前章で紹介した。それらの夢が形になったデジタルカメラとはどんなカメラなのか。
特徴はフィルムを使わないことと、画像をデジタル化した情報として扱うことにある。デジタルカメラには色や光を感じて信号を出すセンサーが数百万から1,000万個も並んでいる。これが画素である。
シャッターを切るとレンズを通った光の波長と強さは個々の画素でデジタル化された情報となってメモリーカードに記憶され、画素は次のショットを待つ。カメラについている液晶のモニターで被写体を見たり、撮影した画像を見ることができる。
フィルムがないからフィルムの出し入れの手間がない。大型の切手ぐらいのメモリーカード1枚に多ければ数千枚もの画像が記録できて、一杯になれば画像をパソコンのメモリーなどに移して何回でも使える。画像はパソコンで自由自在に扱える。画像をパソコンでプリントしたり、メールで送ったりできる。パソコンのプログラムで画像を加工して、大きさや形も、明るさや色も好きなように変えられる。デジタルカメラの出現でこれまでの写真の概念はくつがえされた。
■ その誕生と成長
静止画が写せるビデオカメラや、フロッピーディスクに画像を記録するカメラなどの段階を経て、現在のデジタルカメラの原型が商品化されたのは平成5年だった。
平成7年には、液晶モニターがついたデジタルカメラが発売されて話題になるが、このカメラの画素数は25万、価格は約6万円だった。
ある程度大きくプリントしても画質がいい200万画素以上のカメラが手ごろな価格で出まわる平成10年ごろから、 デジタルカメラは爆発的に売れ出す。 平成14年に23%だった世帯普及率は5年後の平成19年には60%に達する。普及率がいずれ飽和状態に達するのを見こして、早くも売上げの鈍化が言われているほどである。二極分化の傾向も見られて、高級機種の画素数1,000万前後でレンズ交換ができるデジタル一眼レフはまだ伸びるが、小型の機種はカメラ付き携帯電話の普及でやや頭打ちといわれている。メーカーは買い替え需要と底辺拡大を狙って、コンパクトカメラの機能の増強や、操作が簡単でデザインや色を目立たせたいわゆる奥様カメラ、お嬢様カメラの開発に力を入れている。
■ 業界の激震

デジタルカメラで撮影してパソコンで印刷したのは写真といえるのか。こんな議論が出るほどデジタルカメラの出現と普及は写真の世界をゆさぶった。バブル崩壊後の消費支出の減少で業績低下のダメージを受けていた従来の写真業界にとって、デジタルカメラのパンチは決定的だった。
フィルムがいらないデジタルカメラは、当然フィルム業界に影響する。バブル期には国内で年間2,000億円を超えたアマチュア市場のカラーフィルムの売上げは、平成18(2006)年度にはその3分の1になる。これは30年前の昭和51(1976)年ごろのレベルで、低下はまだ続く。
業界の地図が一変する。ドイツのアグファは破綻し、日本のコニカ(旧サクラ)はフィルムからもカメラからも手をひいて、140年続いた写真の事業から撤退する。これで一般用のフィルムは世界でコダックとフジだけになったが、その2社も品種を絞り、あるいは新規事業に乗り出して生き残りをはかっている。
コダック社でいえば、カラー写真の歴史を作ったコダクロームはすでに製造販売を中止し、ローヤルカラーを含めてコダック本社が直接品質を管理してきた世界のコダクローム現像所は閉鎖して、まだ市中に残っているフィルムはアメリカの現像所で現像するという、カラーフィルムの初期のころを思わせる体制をとっている。
カメラ業界も変わった。フィルムカメラの売上げは、統計上比較する数字がないほど落ちこんだ。一般向けのフィルムカメラは生産を打ち切り、カメラの一つの時代が終わる。
デジタルカメラは電子機器である。その開発は電機メーカーのほうが早く、電気製品と同じブランドのカメラがいくつも出ている。流通にも家電のルートが加わった。フィルムカメラでよく知られたブランドのデジタルカメラも多いが、フィルムカメラのメーカーは、カメラ以外の事業が安定している数社を除いてほとんどが合併、提携して、ブランドだけをデジタルカメラに残しているところが多い。

業界でいえば、規模が大きく経営基盤が強い電機メーカーが参入してきたというより、 業界団体も解散して業界の概念がなくなったというのが正しいだろう。そんな中で、交換レンズのメーカーは好調なデジタル一眼レフの売上げに支えられて業績を維持している。
3 ラボの命運
■ ペーパーレス
ラボの打撃も大きかった。フィルムの写真は現像してプリントしないと画像が目に見えない。その現像料とフィルム1本平均30枚のプリント代がラボを支えてきた。
デジタルカメラに現像はない。プリントも大きく落ちこんだ。印画紙を業界ではペーパーと呼ぶが、デジタルカメラは写真をペーパーレスにしつつある。デジタルカメラは撮ればすぐモニターで画像が見られるし、パソコンやCDに記録しておける。いらない画像は消せる。人に写真を渡すのに、フィルムなら焼増しして郵便で送るのが、デジタルカメラなら画像をメールで送れる。旅から帰ってメールを開けると旅先で撮ってくれた写真が先に着いていたりする。プリントしたい画像は自分のパソコンで印刷できる。ラボがプリントする枚数は激減した。これはアルバムの売上げにもひびいている。
ラボは、自分でプリントできない人や色がいいからと銀塩の印画紙にこだわる人たちを対象に、デジタルカメラからのプリント、いわゆるデジカメプリントに活路を求めているが、フィルムでいえば必要なコマだけの焼増しのようなもので、枚数は少ない。
業界の売上げは昭和45(1970)年ごろのレベルに落ちた。ミニラボ店の数は最盛期の半分の1万3,000店にまで減少した。ボールペン1本あればできるといわれた取次店も、副業でやっていた店はともかく、専業の写真店は今つぎつぎに姿を消しつつある。
■ ドッグイヤー
デジタルカメラの開発や発売はラボ業界もローヤルカラーも当然注視しており、いずれフィルムのない写真の時代が来ることは、みな頭では分かっていた。しかしそこに大きな見込み違いがあった。
一つはデジタルカメラの開発と普及のスピードである。ドッグイヤーという言葉がある。犬は人間の7倍早く成長するというところから、急速、急激な進化、発展をたとえていうのだが、デジタルカメラは犬のように成長した。
デジタルカメラの原型が出て10年後の平成15年には、一般向けにはこれ以上必要ない1,000万画素以上の機種も出て、今の原理でのデジタルカメラはほぼ完成の域に達する。その後は画素についたゴミを自動的に除くとか、自動的に笑顔を察知するといった機能が加わるぐらいである。安くてそれなりの機種から、何とか手が届く価格の上級機種まで、選択の幅は広い。それだけに普及は早く、統計ではすでに60%の世帯にデジタルカメラがあることになっている。これが想定外だった。まだ先のつもりの台風があっというまに頭の上にきたのである。
もう一つ見通せなかったのは業界の変わりようだった。というより業界の崩壊である。これまでカメラ、フィルム、ラボは、一貫したシステムとしての連携があった。新しいことをやるにも、ほかの業界が対応できるまでは自分も動けない運命共同体のような関係だったのである。
デジタルカメラのメーカーとラボとの間には何のつながりもない。デジカメプリントはラボが独自にやっていることでメーカーは関知しない。ミニラボのデジカメプリントでは、客は受付機にメモリーカードを差しこんで注文するが、少し前まではメガ(100万)バイト単位だったメモリーカードが、今はギガ(億)バイト単位に容量を増している。ミニラボ機のメモリーがそれに対応できないケースがあるのも一つの例である。
フィルムメーカーは資本系列のラボを分社化したり整理したうえで、ミニラボ機のメーカーと提携して、従来の垣根をこえてフィルムでもデジタルでも写真の仕上げの仕事の囲い込みに乗りだしている。パソコンの画像処理のソフトウエアや写真専用のプリンターはそれぞれのメーカーがそれぞれにやっていて、他社とのつながりはない。とりわけラボはデジタルカメラや関連商品のかやの外で、何の情報も入らない。かつての情報源の業界紙もほとんど姿を消した。
■ 守るも攻めるも
ローヤルカラーのデジタルカメラへの対応は早いほうだった。戦線の整理では、直営店の展開にあわせて進めていた営業所とブランチラボの整理を早めて、最盛期の12営業所、6ラボを、6営業所と2つのメインラボに、直営店も84店を42店に半減した。全社の電算機業務を本社での集中処理にして効率化を図る。最大で400人いた従業員も整理して110人までに淘汰した。この改変は今後も続く。
一方で攻めの姿勢は崩していない。すでに手がけていたフォトCDに加えてCD、DVDの書込みをいち早く自社処理に切りかえる。業界に先駆けてプロ用のデジタルプリンターを導入した経験から、ミニラボもデジタル機に切りかえデジカメプリントの店頭注文の端末を設置して、デジタルカメラのユーザーの確保につとめる。
さらに名刺ハガキ印刷システム、学校写真サポートシステムを導入し、提案するラボとして売込みを図っている。
しかし、アマチュア部門は苦しい。一時は安定するかに見えた直営店のデジカメプリントも、スーパーなどに置かれた無人のプリント機に客が流れたり、安くて手軽なデジタルカメラ用のプリンターでのプリントが増えたりして、ラボのプリントの減少はまだ続く。
■ 軟着陸
ローヤルカラーでは昭和60(1985)年ごろはアマチュア部門で年間300万本のフィルムを処理していたのが、平成18(2006)年には70万本と4分の1に激減する。取次店を一まわりすればフィルムが何百本も集まった時代は夢のまた夢になった。
ラボ業界全体の売上げは昭和60年がピークで、その後は毎年下降を続け、デジタルカメラが出まわる平成10年からは年10~15%、平成18年には1年で30%近く減少して、ピーク時の20%にまで落ちている。業界首位の大手系列ラボの売上げは10年前の30%に落ちこんだ。多くのラボが姿を消し、上位のラボも再編、統合を進めている。
一方ローヤルカラーの売上げのピークは業界全体より10年遅い平成8年で、その年の業界全体の売上げはピーク時の80%にまで低下している。ローヤルカラーの売上げもその後はやはり下降に向かうが、落ちこみは平成18年度でピーク時の53%にとどまっている。
直近の期の経常利益率がバブル後の一時期より高いのは特筆に値する。ローヤルカラーは急降下はしたが軟着陸した。しかしここで翼をたたむわけにはいかない。今ローヤルカラーはデジタルカメラがもたらした世紀の激変を経て、新しい空に新生を賭けている。
4 サバイバルの時代
■ 背水の陣
本来ならここでローヤルカラーのバラ色の未来と社運の隆盛をうたって社史をしめくくるところである。しかし、いわばデジカメ維新の中のローヤルカラーの前途に、きれいごとは言えない。日本経済の現状から写真界の事情まで、ローヤルカラーを取りまく環境はきわめて厳しい。一つの過ちも許されない背水の陣といって過言ではない。会社の生命をかけたサバイバルの時代に突入したのである。
ローヤルカラーは3代の社長の牽引力と過去、現在の社員たちの推進力で歩んできた。その間ローヤルカラーはその独自性で業界に知られる存在となったが、その動きはいうなれば100年余の歴史を持つ旧来の写真界の枠を出るものではなかった。しかし写真界の激変は、ローヤルカラーをその縛りから解きはなした。頭の上には自由に羽ばたける大空が広がっている。ただそこには何の目印もなく、どんな風が吹いているのかもわからない。
では、ローヤルカラーがこれまで築き上げた有形無形の財産の中で、今後に活かせるものは何だろうか。
■ 次代をになう
大きく期待されているのはコマーシャル部門である。
数字で見るかぎり、不況とデジタルカメラの影響の中にあってのアマチュア部門の健闘はうかがえるが、同時プリント主体の業務の低下は目に見えている。今後はコマーシャル部門がローヤルカラーの牽引車となるだろう。
ローヤルカラーの原点は澤田五郎がニューヨークで見た大きな写真広告であり、ローヤルカラーのプロ部門は早くから広告写真に力を入れてきた。創業のころは、写真館や式場写真や職業写真家の作品を手がけるのが本来のプロラボで、宣伝広告の写真のラボは一格下のように見られていた。今でこそ広告写真のラボは多くなったが、ローヤルカラーは常にその1歩も2歩も先を進んできた。ここでローヤルカラーのプロラボの歩みをたどってみよう。
■ プロラボの変遷
一般にプロラボは次の3種類に大別される。リバーサル現像を主体としたカメラマン中心のラボ、デュープ制作を中心とした印刷原稿中心のラボ、それと大型プリント作成を中心としたディスプレー中心のラボである。
ローヤルカラーはアマチュアも対象にした総合ラボの形態をとっていたので、もちろん、現像、デュープ、大型プリントをこなし、ハイエンド層のアマチュアが使うリバーサルフィルムをいち早く取り入れ、コダクロームの現像処理まで展開してコマーシャル・プロカメラマン市場も切り開いてきた。デュープとはリバーサルフィルムを複製、合成して雑誌などのカラー写真のページの印刷原稿を作る作業である。高度成長がピークを迎えるころ、豪華な装丁のファッション誌や趣味嗜好の雑誌が書店の店頭を飾り、デュープの需要もピークに達したが、やがて印刷業界も衰退していく。
一方広告業界は、電波・印刷・交通広告・屋外広告媒体と高度成長の波にのってすばやい動きを見せ、プロラボもその動きに同調して進化してきた。ローヤルカラーはそのうちの交通広告中心のプリントラボを選択し、他に一歩抜きんでた存在となった。当然使われる素材も媒体に合わせて進化していく。ローヤルカラーは、進化する媒体に合わせた営業戦略をとり、たえず新しい素材を探求し素材メーカーと協力して新しいメディアを開発することが、必要不可欠であった。
■ 大型写真広告
1970年代、町の看板はいわゆるペンキ屋さんが描く文字やイラストが主流だった。当時写真を屋外の広告に使うのは考えられなかったが、ローヤルカラーでは社長がアメリカで見た写真広告を日本で実現したいと、いち早く大型プリントの引伸し機を導入してディスプレー市場への展開を図ってきた。しかしまだローヤルカラーも広告業界も暗中模索というのが実体だった。
そのころは今のようなロールラミネート技術はなく、大型広告はNECOプリントが主力で布や専用紙に画像やサインを吹き付ける手法だった。アデムコ機での圧着では一枚制作にも限界があり、写真のような繊細な表現はできない。屋外広告への写真の進出は広告主も待ち望んでいるところだった。
そんな時にある広告代理店から、ビール会社の広告をビルの壁面に直接貼る話が持ち込まれてきた。それも15.5m×6.5mという当時では超大型の写真広告を、東京でも目抜きの銀座ソニービルの壁面に貼ろうというのである。
当時は粘着の技術も今ほどではなく、苦心して試行錯誤を繰り返して何とか成功にこぎつけ、銀座の歩行者に迫力あるビルラッピングを披露することができた。これがローヤルカラーの屋外広告を大きく飛躍させることとなった。
その後感材メーカーとの技術協力で、新素材「ファインマテリアル」 が開発され、製品発表と同時にNHKにも取り上げられる。 「シャッターフォト」の名称で、銀行、デパート、商店街のシャッターに採用されて閉店後の町をいろどり、やがてJR各駅の「アズキー」コインロッカー、車両、展示ディスプレーと展開していく。まさに、屋外広告の幕開けであった。
■ デジタルの追い風
パソコンなどのデジタル機器、デジタル技術の発展で、世界がデジタルの時代を迎えると、この業界でもデジタル画像制作システムのコダックプレミア機が発表される。導入のいきさつは前にも述べたが、ローヤルカラーは実用機の第1号を購入し、原稿作成はそれまでのマスク方式の切貼り作業からモニター画面で処理するデジタル出力に変わっていく。ただこの時点ではラボの作業のデジタル化にとどまって、顧客からの新規の媒体の発注はまだなかった。
そのころ静電プロッターでプリントしたサンプルが初めて持ち込まれる。さっそくアメリカのプリンター会社に連絡して分析を始めるが、その後住友スリーエムからこの技法によるスコッチプリントシステム機が日本でも発売され、これも1号機を導入する。これまで写真で出せなかった表現や、加工が容易で屋外広告の表現の幅が大きく広がることが期待され、これが引き金となって日本でも市場はデジタル出力時代へ入っていく。
■ インクジェットの革命
このころ市場に出た大型の業務用水性インクジェットは、プリントに関係する業界の地図を変えた。印刷の版下の作成はパソコンの普及ですでにデジタル化され、写植も姿を消していたが、ある時期までは影響はそれぞれの業界の内部の問題にとどまっていた。しかしインクジェットの出現は写真と印刷の垣根を取り去り、出版、デザイン、コマーシャルなど幅広い業界に革命的な影響を及ぼす。
サイン業界はなだれを打って写真業界に参入して、文字を読む文化を写真・イラストを多用した目に訴えるビジュアル文化に変え、その一大市場が形成されたのである。
その後出力の方法は水性系、溶剤系、UV硬化、熱転写、昇華と急速に多様化し、それに合わせて顧客の要望も多様化され、用途に合わせた使い分けが要求されるようになる。銀塩写真であればたかだか何種類かのメディアの選択でたりるが、今は出力機の種類だけメディアを揃えなければならず、対応する市場の要請に応じるハードの選択が、企業の採算、収益を左右しかねないのが現在のプリント事情である。業界の技術的な垣根が取り払われて、マーケットは大きくなったように見えても、そこには参入も進出もあれば、退場もありうるのである。
今後もデジタル技術は日進月歩、不可能を可能にしていく時代の牽引役であり続けるだろう。
■ 差別化で「オンリーワン」に
広告業界の媒体へのニーズはとどまる所を知らない。ローヤルカラーはその要求を満たしてこの業界での地盤を固めるため、これまで専門業者に依存していた二次加工に力を注いで差別化をはかっている。かつて同時プリントで経験した品質、納期、価格の競争に明け暮れていては日の目は見られない。
広告が掲出される場所、環境などのさまざまな条件に対して、どのような素材をどのように加工するのが最適なのかを熟知し、プリントの技術と素材に加えてパネルその他のさまざまの二次加工で、広告業界に「ローヤルカラーはオンリーワン」という認識を浸透させるのが目標である。
広告は当然だが、ビジュアルの時代の展示会・キャンペーン・大型のプロジェクトなどの成功の条件は、まず人の目を奪うこと、いわゆる視覚に訴求することである。
コマーシャルの舞台はめまぐるしく変わるが、ローヤルカラーの製品はそれらの演出のトップに立ち、社員は時代の先端で仕事をしている自負を抱いている。ローヤルカラーはプロラボを一つの柱として、市場ニーズに合わせた展開で、更なる飛躍をはかる。
■ 数字で見ると
プロラボ業全体の売上げのピークは平成3(1991)年で、現在売上げの減少はピーク時の60%となっている。アマチュアラボとプロラボの売上げ高の比は昭和60(1985)年に9対1だったのが、平成15(2003)年で8対2、現在は6対4とプロラボ業の比率が高まって、いずれは逆転するだろう。
ローヤルカラーのプロ部門は、業界全体より1年早い平成2年に売上げのピークを迎えた。その後流れとしては下降に転じて、平成14年に一度大きく落ち込んだが、他の年は5%以内の減少にとどまり、逆に売上げが前年を上回った年が17年の間に6年あって、直近の平成16、17、18、19年と4年続けて伸びたのが目立つ。平成19年の売上げはピーク時の55%である。
全社の売上げに占めるプロ部門の率は昭和60年以降20~25%の間を上下し、現在は23%となっているが、今後のアマ部門の低下によって相対的にその率は高まる一方だろう。
広告、宣伝用の写真も当然デジタルカメラの影響は受けるが、広告写真の制作ではフィルムの現像などの費用の率は小さい。むしろデジタル化で画像の処理や伝送が容易になり、作業は楽になったメリットは大きい。
■ 総合広告業へ
それでもなお競争は激しい。顧客もプロであり、要求は厳しい。ローヤルカラーは平成16年10月にプロフェッショナル事業部をコマーシャルイメージング事業部に改称し、設備投資を重点的に行なってきた。幅2.5メートルの超幅広の現像機、大型デジタルプリンター、ラミネーター等を導入し、平成16年3月には壁装材の防炎認定、平成17年3月にはターポリン等の防炎認定を受けた。また平成18年4月には東京都の屋外広告業者の資格を取得、広告の設置の手続きから施工まで屋外広告のいっさいを行なえる体制を整えた。平成19年4月には本社別館にクラフトセンターを開設して、ラミネート、カッティング、木工作業などを行なっている。レーザー彫刻システムも試用している。そして大型銀塩デジタルプリンターから大型インクジェットプリンターと確実に設備を増強して業界のニーズに応えていく。
コマーシャル部門は広告写真のラボから、ラボを持つ広告業へと変身する。さらには媒体を写真に限定せず、光の効果をLED等の最新の技術で活かした媒体を開発して、顧客にトータルで企画、提案し、作成、施工する総合広告業へのビジョンを抱いている。
5 未来を開く鍵
■ 模索は続く
コマーシャル部門以外にあるのは何だろうか。
フィルムの写真、中でもアマチュアの銀塩写真愛好家への対応は、ラボを含めて写真業界が負っている大きな課題の一つである。フィルムのカメラはまだ無数にあるし銀塩写真の愛好家は多い。フィルムは現に生産を続けている。ラボの数が少なくなっていく中で、そのニーズにどう向きあうか。カラーフィルムの初期のころの処理システムにそのヒントがあるかもしれない。
平成19年、ローヤルカラーは白黒写真の設備を導入した。創業以来初めてのことである。これがラボのサバイバルをかけたローヤルカラーの一つの動きとも言える。規模的なナンバーワンはもはや意味がない。ここでも隙間産業的な「オンリーワン」を目指すのがこれまでの財産の活かし方だろう。ローヤルカラーがなくなると困ると言う写真関係者は多いのである。
まったくの新規事業はないだろうか。答えは簡単には出ないが、模索は今後も絶えず続くであろう。
■ ローヤルカラーは永遠
未来への鍵とエネルギーは、 「ローヤルカラーは永遠」 、という澤田廣の言葉の中に、またローヤルカラーを誇りとする社員やOBたちの言葉の中にある。
「ローヤルカラーで働いたのを誇りにしている」 「人を育てる会社」 「人間味のある会社」 「外から見て社員が洗練されている会社」等々、OBたちの会社評である。
「明日……それが私と家族そして企業と社会の繁栄となる」 ローヤルカラーの社是の一節である。
44年前に未知の海に乗り出したローヤルカラーは、今激動の渕から未知の空に飛び立とうとしている。